安井息軒《救急或問》27

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一用ヲ節スルノ大意ハ、禮記王制ニ、三年耕有一年之食【①】ト云ヘルヲ本トス、國君ヨリ下士ニ至ルマテ、常祿【②】アル者ハ、此外ニ經濟【③】ノ法ナシ、其法一年ノ邑入ヲ四分シテ、二分半ヲ經費【④】トシ、分半ヲ不時ノ費ニ當テ、一分ヲ留メテ他年ノ貯蓄トス、此法ヲ堅ク守レバ、三十年ニシテ九年ノ蓄アリ、三年ノ蓄無レバ、國非其國【⑤】トテ、國有ルトモ無キガ如シト云ヘリ、今ノ諸侯ハ大畧商賈ノ鼻息ヲ仰イデ【★】世ヲ渡ル故、元利ニ逐レテ、藩士ノ祿ヲ借リ、封内ノ農・商ニ、橫斂【⑥】ヲ賦シ、山ヲ童ニシ【⑦】田ヲ典シ【⑧】、來年ノ邑入ヲ今年用ヰテモ猶【⑨】足ザレ共、恬然トシテ故轍ヲ改メ其國ヲ國トスルヿ(こと)ヲ知ラズ、餘リ云ヒ甲斐ナキ事ニアラズヤ、然レ共其積弊ノ後ヲ承ケテハ、一時ニ國勢ヲ

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立テ直スヿ實ニ難シ、邑入四分ノ外ニ、非常ノ節儉【⑩】ヲ行フベシ、信ニ背クハ不義ノ大ナル者ナレドモ、府庫空虛ノ上ハ爲スベキ樣ナシ、且終身信ニ背クヨリ暫時信ヲ虧クハ其罪輕シ、先ツ債劵【⑪】アラバ年ヲ限リ、元利据置ノ旨ヲ談シ、君ヲ初メ衣服・飲食ハ平士【⑫】ト同フシ、公用ノ外ハ先例古格【⑬】タリトモ、費ヘアル事ハ暫ク廢替スベシ、年年地ヨリ生スル財用ナレバ、用之舒【⑭】ナル時ハ、數年ナラズシテ、財用饒裕ナルハ必定ナリ、是レ程ノ果斷ナクバ、積弊ノ餘殃【⑮】ハ除キ難シ。

注釈:
①三年耕有一年之食:《禮記・王制》國無九年之蓄曰「不足」、無六年之蓄曰「急」、無三年之蓄曰「國非其國」也。三年耕、必有一年之食。九年耕、必有三年之食。以三十年之通、雖有凶旱水溢、民無菜色、然後天子食、日「舉以樂」。
②常祿:定収入。
③經濟:儒家にとって「經濟」とは「經世濟民」(世を經(おさ)め民を濟(すく)ふ)を略した言葉だが、息軒はここで貨殖・理財・利殖など現代における「経済」に近い意味合いで用いている。
④経費:経常費用。継続的に毎年発生する費用。
⑤國非其國:注①参照。
★鼻息を仰ぐ:相手の意向や機嫌を気にすること。「鼻息を窺(うかが)う」
⑥橫斂:横徴暴斂。 厳しく強引に取り立てること。
⑦童山:禿山。「童」は山岳や田地に草木がない状態。
⑧典田:「典地」ともいう。土地や田畑の所有権や収益権を借金の抵当に入れること。
⑨猶:底本は正字体に作る。
⑩節儉:節約することで、特に支出を減らすことを指す。
⑪劵:底本は正字体に作る。
⑫平士:普通の武士、または官職のない人民。ここでは後者の意味。
⑬先例古格:古くからの慣例、慣習法。
⑭用之舒:《禮記・大學》生財有大道。生之者眾、食之者寡、為之者疾、用之者舒、則財恒足矣。
⑮ 餘殃:先祖が犯した悪事の報いが、その子孫にまで及ぶこと。《周易・文言》積不善之家、必有餘殃。

意訳:節用(=費用を節約すること、支出削減)のあらましは、《禮記・王制》に「三年間耕作すれば、一年分の食糧が備蓄できる」(三年耕さば、一年の食有り)と言っているのを基本とする。そもそも藩主から下士に至るまで、収入が一定の武士にとっては、これ以外に貨殖(経済)の方法はない。

   その方法とは、一年間の税収を四等分して(邑入四分)、そのうち二分半(62.5%)を人件費など毎年継続的に発生する経常費用(經費)にあて、分半(12.5%)を臨時費用(不時ノ費)にあて、一分(25%)を残して将来のための貯えとする。
 〔《禮記・王制》には「国家に予算九年分に相当する貯蓄がない状態を「〔財政〕不足」という」(國に九年の蓄無きを「不足」と曰ふ)とあるが、〕この方法を固く守れば、三十年間で九年分の費用が貯蓄できる【①】

補注:
①毎年25%の貯蓄を30年間続ければ合計750%となる。これは年間費用(経常費用62.5%+臨時費用12.5%=75%)の10年分に相当する。
 また《禮記・王制》は、国家に予算三年分に相当する貯えが無ければ、「その国家は、もはや国家ではない」(國は其の國に非ず)と言って、たとえ国家として存続していても存在していないに等しいと言っている。

 現代(※江戸時代)の諸侯(藩主)はたいてい商人の機嫌を気にしながら生計を立てているため、いつも借金の元利(=元本と利息)の返済に追われて、藩士の給料を借り〔ると称して未払いをしたり〕、領内の農民や商人に重税を課して強引に取り立てたり、山林を乱伐して禿げ山(童山)にし、田畑の使用権や収益権を抵当に入れ(典田)、来年の税収を〔担保にして商人から借金をして〕今年のうちに使ってしまってもまだ足りないけれど、平然として恥じ入る様子もなく(恬然)、昔ながらのやり方(故轍)を改めて国家としての体裁を取り戻そう(其國ヲ國トスル)という気もない。あまりに情けないことではないか、いや情けない(反語)。
 しかしながら、〔歴代の藩主が先送りにしてきた〕その積年の弊害を継承していては、いっぺんに国勢を立て直すことは実に難しい。上述の「邑入四分」(=税収の4分の1を貯蓄に回す方法)以外に、普通ではない支出削減(節儉)を行う必要がある。〔それはデフォルト宣言と緊縮財政である。〕

 確かに信義(約束を必ず守ること)に背くのは道義に反する行為の中でも特に重大な罪だが、国庫が空っぽの現状では他にやりようもない。それに生涯にわたって信義に背き続けるよりは、一時的に信義を欠くのはまだ罪が軽い。

 まず債劵があればその年限を限り、〔たとえば20年前の債務であれば、利子が20年来毎年加算され続けてきたはずだが、その利子を5年なら5年分を上限として区切り、残りの利子は返済を免除してもらうというように〕元利を据え置く旨を貸し手である商人たちと相談し、それから藩主を初め藩士一同が衣服・飲食は平民と同じにし、公務以外の事は古くからの慣例(先例古格)であろうと、費用がかさむ事はしばらく廃止にしたり他で代替したりしなければならない。

 毎年土地が資財(財用)を産み出してくれるのだから、《禮記・大学》にいう様に「資財の消費をゆるめる」(用之舒)時、数年に待たずして、国家の資産(財用)が有り余るほどになるのは必定である。

 これくらいの果断な処置を行わなければ、歴代藩主が積み重ねてきた弊害による負の遺産(餘殃)を自分の代で取り除くのは難しい。

余論:息軒の財政再建策。債務不履行(デフォルト)宣言と緊縮財政の二本柱からなる。

    前者は極論に見えるが、実は明治に入って実際に行われた。明治政府が明治4年に「廃藩置県」を敢行した際、旧藩の債務を引き受けることを内外に約束したものの、最終的には実にその85.2%を切り捨てるという実質的デフォルトを断行している。この実質的デフォルトは、秩禄処分・地租改正に隠れがちだが、明治初期における財政構造改革の重要な一角を担っている。(参照:大森徹〈明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響〉《金融研究》2001.9、134頁)

    また後者に関して、息軒の「邑入四分」は、その儒教的な修辞を取り除けば、要するに例年歳出を歳入の75%以下に抑えて、歳入の25%を繰り越すことを目標に据えること、現代風に言い直せば「プライマリーバランスの黒字化」を主張しているに過ぎない。
 幕末の有力諸藩はいずれも緊縮財政(もしくは歳出が歳入を越えないようにする均衡財政)に取り組んでおり、これは当時における常識的な財政論と見ても差し支えなかろう。実際、明治6年に井上馨と渋沢栄一が明治政府に提出した財政上の建言も、息軒と同樣、歳出が歳入を越えないようプライマリーバランスの黒字化を図ることが説かれている。

夫レ出ルヲ量リ入ルヲ制スルハ歐米諸國ノ政ヲ爲ス所以ニシテ我國力民情未タ此ニ出ツル能ハサルモノ人人ノ能ク知ル所ナレハ方今ノ策ハ且ラク入ヲ量リテ出ヲ制スルノ舊ヲ守リ務メテ經費ヲ節減シ豫メ一歳ノ所入ヲ概算シテ歳出ヲシテ決シテ之ニ超ユルコトヲ得サラシメ院省寮司ヨリ府縣ニ至ルマテ其施設順序ヲ考量シ之カ額ヲ確定シテ分毫モ其限度ヲ出ルヲ許サス
      ※明治財政史編纂会編《明治財政史》1、第2章、10頁~11頁

 日本は世界一の借金大国と称される。国の借金は1000兆円、実にGDPの2倍を越え、財政再建の名の下、増税の必要性が盛んに喧伝されている。息軒がいうところの「封内ノ農・商ニ、橫斂ヲ賦シ」という状態である。軽々しくデフォルトを宣言するべきでないのはもちろんだが、「果斷ナクバ、積弊ノ餘殃ハ除キ難シ」のも確かであろう。

 また息軒は「君ヲ初メ衣服・飲食ハ平士ト同フシ」という。これを現代的に解釈しなおせば、「議員報酬や公務員手当などの削減・廃止」とも再解釈できるが、再三言ってきたように「君主」は総理大臣ではなく主権者たる国民と読み替えなければならない。とすると、我々は国民一人あたりのGDPに対して、あまりに手厚すぎる福祉サービスを見直す必要があるのかもしれない。

注③「經濟」について。
 注で述べたように、「經濟」という語句は「經世濟民」(世を經(おさ)め民を濟(すく)ふ)の略語であり、意味としては「民政」が近い。中国では隋代の王通《文中子・礼楽》に「皆有經濟之道、謂經世濟民」とあり、また日本では江戸時代中期の儒者である太宰春台の《経済録》に「凡天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」と言い、「經濟」を「經世濟民」の略と定義している。
 「経済」という語句を現代的なニュアンス、すなわち社会生活における生産・消費・売買という意味合いで用いたのは、江戸後期の儒者海保青陵(1755-1817)に始まるとされる。この用法は、正司考祺(1793-1858)《経済問答秘録》(天保12年(1841)に「今世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」と見えることから、幕末までには広く浸透していたと思われる。だからこそ、幕末に福沢諭吉《西洋事情・外編》(慶応2(1866))も「経済」を「political economy」の訳語として当て、「「ポリチカル、エコノミー」經濟と譯ス(略)国民、家を保つの法と云える義」といったのだろう。
 ただし明治時代に入ると、井上哲次郎が「political economy」を「理財学」と訳し直し、福沢諭吉の慶應義塾は日本で最も早く経済学部を開設したが、明治23年(1890)開設当初は「理財学科」と称しており、「経済学部」に改称したのは大正9年(1920年)のことである。
 いずれにせよ、息軒がここで「経済」という語句を「貨殖」の意味で使っているのは、幕末当時にあってさほど異なことではないのである。

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