見出し画像

本が最高のエンタメ。

色々なジャンルの本が好きだ。小説もエッセイも新書も哲学書や詩集も読む。その中でも私は小説が最も好きだ。

本を読む必要のない人もいる。「情報を入れるならネットでいいじゃん!」という意見もごもっとも。

小説だって要約を読めば、時間をかけずに内容はわかる。近頃は動画で小説の説明をしているものもある。読書とはタイパ(タイムパフォーマンス)が悪い能動的な作業だ。

本が売れなくなっているという話も最近たびたび耳にする。寂しい話だが、読書するということはもはや時代遅れなのかもしれない。
それら全部承知の上で言いたい。

本より面白いエンタメは無い。


我々にとっての主なエンタメは動画などの映像化したものが主流だ。ネットフリックスやYouTube、ティーバやアベマ、TikTokなど。

しかしよく考えてほしい。本では「こんなの映像化できないだろう」というものが製品になっているのだ。映像化に成功している作品ももちろんあるが、やはり本には敵わないものが多い。

その理由は様々だ。映像化するには技術的な問題や、倫理的な問題もあげられるだろう。商業的な兼ね合いもある。資本を投資して「映像化する=儲かる」の関係にしなければ叶わない。

私はそのような映像化のしがらみはさておき、小説においては自分の想像力で創り出した映像のほうが素晴らしいのだと考えている。例えば森鴎外の【高瀬舟】からの引用。

いったいこの懸隔はどうして生じて来るだろう。ただ上うわべだけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こっちにはあるからだと言ってしまえばそれまでである。しかしそれはうそである。よしや自分が一人者ひとりものであったとしても、どうも喜助のような心持ちにはなられそうにない。この根底はもっと深いところにあるようだと、庄兵衛は思った。

 庄兵衛はただ漠然ばくぜんと、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。

 庄兵衛は今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光ごうこうがさすように思った。

森鴎外 高瀬舟より

高瀬舟を初めて読んだのはおそらく高校生の時、現代文の授業でだと思う。私はその当時からこの小説が好きだった。
高瀬舟のあらすじは以下。

高瀬舟のクライマックスはなんといっても喜助と弟とのやりとりだ。それを単に映像化するのは簡単だろう。しかし上にある引用の文章内にある「映像化しにくい心情」を頭に巡らせてから見る(イメージする)クライマックスは格段に胸に刺さるのだ。

昔は深い心情を書いていて、それを言語化している森鴎外が凄いのだと思っていた。そして40歳になって、さらにこの小説の凄さが分かった。めちゃめちゃ短い小説なのだ。全文読もうと思えばすぐにでも読める。

「え?こんなに短編小説なの?」と…さらに、こんな短編小説なのに、鮮明に頭の中の映像が残っていることに本当に驚いたのだ。

やはり小説の映像は最高だ。どんなエンタメよりも、私にとっては楽しい。
秋の気配がしてきた夜に、たまに読書もいいですよ。

次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人ふたりを載せた高瀬舟は、黒い水の面おもてをすべって行った。

森鴎外 高瀬舟  文末


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?