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木を植えるマオリの村

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「93歳の老婆が率いたデモ」

ニュージーランドには今も語り継がれるデモ行進がある。1975年。フィナ・クーパーという93歳のマオリ女性が3歳の孫を連れて、彼女を慕う若者とともに徒歩でニュージーランドを横断したのだ。北島の最北端の海岸から、最南端のウェリントンの議事堂を目指して出発し、マオリ族に伝わる土着的な歌を歌いながらアスファルトの道を裸足で歩き続けた。

その日から30年前マハマトガンディーがインドを歩いた時のように、彼の言葉を借りると「カタツムリのように進むこと」でメディアに注目を浴びた。テレビや新聞、ラジオを通じてニュージーランド全土に拡散され、パケハ(白人)もマオリもその動向を見守った。

そして出発してから30日。ついにウェリントンの議事堂に到着したフィナはこう訴えた。

「私たちから奪った土地を返してください」

「始まりのマーチ」

マオリ族はニュージーランドの先住民族だ。14世紀にハワイキという島から、カヌーで太平洋を渡り移り住んだとされている。

彼らの生活は地に根ざしたものだった。あらゆるものに神が宿ると信じ、農耕や捕獲、漁業を生業とする慎ましい暮らしを送っていた。土地はマオリにとって信仰の対象だった。papatunuku(大地)や森は神様であり、母親であるという。誰かが所有するのではなく部族内で共有し、大切にケアしながら共存していた。だが18世紀にニュージーランドに入植した英国人は土地を“人間の所有物”だと考え、輸出と牧畜のために木を伐採したのだ。この価値観の違いが軋轢を生み1870年ごろからマオリとイギリス軍の土地をかけた戦争が勃発。マオリは勇敢に戦ったが争いに敗れ土地は奪われてしまい、西洋人の間で自由に売買されはじめた。そして彼らが生業としていた農耕や狩猟もできなくなってしまった。生きるためにはパケハ社会に馴染み、彼らと同じような仕事をしなければならなかったが、それは簡単ではなかった。彼らの生活スタイルはパケハと大きく違ったし、マオリの子供達への教育は十分になされなかった。植民地政策でマオリ語をしゃべることを禁止され、文化は奪われた。

仕事を求めて都会に出たマオリは厳しい現実に直面した。良い仕事を見つけるのは困難で、低賃金で過酷な労働を強いられる肉体労働しかなかったし、失業率も高かった。白人社会に馴染めず差別を受けることもあった。孤独感や劣等感から、アルコール中毒や自殺、犯罪率の高さが際だち、家庭内暴力や近親相姦も大きな問題になっていた。

マオリは口をそろえる。「つまり、フィナの行進は全ての始まりだったんだ」

その行進はすぐに状況を治癒する特効薬ではなかったが、フィナの姿から感銘を受けたマオリは自分たちの未来を語り合った。フィナの狙い通り、部族の垣根を超え結束は固まった。そして何よりもマオリというアイデンティティーに自信を持つことができたことと、世論を仲間にできたことで復興運動は活発化した。そして2008年、ついにニュージーランド政府は、かつてマオリから奪った土地の返還を認めた。約17万ヘクタールをマオリに返還することで合意し、議会で調印したのだ。

しかしそこには条件がついていた。「75パーセントを占めていた原生林が20パーセントまで激減した状態」での返還だったのだ

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「100人の小さな村」 


マオリはその返還された土地を、どのように利用しているのだろう。

それを知るために北島にあるホークスベイという地域に在る、マオリの村を訪ねた。その頃同居していたマオリ家族の父親が「その村の長老は素晴らしい人で、土地の活用について理知的な計画を立ている」と紹介してくれたのだ。

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