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著:M.S
二十二歳、新社会人、男、兵庫出身・在住、お笑いは好きです。よろしくお願いします。

三日坊主、という言葉がある。昔、仏門に下るも厳しい修行に耐えかねて三日で寺を出たという小僧の話がその由来となったとされ、「飽きっぽく、物事が続かないさま、またそのような人間の性質」を指す。

これから私が話すこと、それは既に私以外の二人の胸に湧いているであろう疑念についてである。

まだ顔も知らない十九歳の女性(おっさんかもしれない)は幸先よく交換日記の先陣を切ってくれ、それに私の友人が流れるように続く。そして私が第三走者であると自覚したそのとき、驚くべきことに私の内なる小僧は既にダブルのライダースに身を包み、盗んだバイクで寺から走り出さんとしていたのである。

突如として正体不明のエラーを自らの内に認め、脈が速くなる。何故?自分で二日分書いたならまだわかる。書いていないのだ。一行たりとも。

少し胸に手を置いて深呼吸をする。ほぼシロえもんのワンダーワイドホワイトボール状態だった私の脈拍は徐々に瀬戸内の水面の如き穏やかさを取り戻していった。


今やありとあらゆるものが共有されうる時代。
仕事も。写真も。文章も。思い出も。時間さえも。

旅の写真もすぐさまアルバムで共有できるこんな時代。

息子とギガを共有したせいで、天気とYahoo!ニュースしか見ないババアのスマホが理不尽にネガティブゾーンへ叩き込まれるこんな時代。

共有とは侵食にほかならない。

他者の一部が私に"共有"されると、もともとそこにいた"私"は押し退けられ、私が少し私でなくなる。

私も日記をこの二人と共有できたことで、二人の個性的かつ表現力に富んだ言葉の数々が私を侵食し、私の三日坊主ゲージをパンパンにしてしまったのであろう。

これは言ってしまえば私の内なる小僧に対する私自身の監督不行き届きに他ならない。もっと早くに、教習所通い出したらへんで気づいてやらなければならなかった。要反省、である。

しかし誰かはこう言った。「自由にやろう」と。

自由とはなんなのであろうか。
前の人が二日後に書いてくれたから僕も二日後に書かなあかんなあ〜、ペース守ってきっちり続けていこな〜、こうなってしまってはもうそこに自由はない。

自由とはそんなものから生まれはしない。
むしろそう言った一切合切の慣習や支配から卒業した先に、逃げ込んだあの夜に、"彼"は確かに自由を見たはずなのである。

前回までの流れから普通に考えて一日おきに投稿していくと思われたこの交換日記。一周目にして五日も空けてしまった。

しかし自由になれた気がした、二十二の夜。

※上のやつ全部嘘です

※土下座しながら鼻で文字打ってます

※これからもよろしくお願いします


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