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著:M.S.

…ったら…
…ナといったら…
バナナといったら……!

あ、失礼しました。

【交換日記】
他人に自分を言語化してもらうというのは面白い。
”マジカルバナナで一発目「黄色」って言わない”…まさしくその通り。
私も少し付け加えるとするなら、”マジカルバナナで一発目「黄色」を捨て、「果物」を捨て、「南国」も捨て、果ては「なんかあの、白い筋がウザい」とかも言わず、マジカルバナナを成立させない人"である。最悪としか言いようがない。でも私は反省も何もしない。なんなら「バナナと言ったら」「黄色」なんかもはや間違いだとさえ思っている。

もはや私の意思では抗えないのだ。「こんなもんでいいだろう」「この場ではとりあえずなんか言うべき」そうやって拾い上げた言葉も、私の脳内を間借りしている陶芸家に悉く割られていくのだから。まだ私が小学校高学年くらいの頃はコイツもまだ駆け出し、見習いと言ったところで、イマイチなワードが出た際に「僕、これ割っときましょか?」と気を利かせてくれるような奴だった。それくらいなら良かったのだが、中学高校と上がるにつれ徐々に勝手な判断で割りはじめた。今ではもう完全に割りメイン、なんならもうスマホ片手に空いてる方の手で軽快にパリンパリンやっている。言葉の土くれは積もってゆくばかり。そうして何にも形容されることなく消費期限を迎えた可哀想なバナナを私は何本も見てきた。

私自身、「たとえる」という行為が好きなのだ。科学原理や仕組みの上の世界で生きていては到底混じり得ないもの同士が、見えない糸で縫い合わせられるようにピタリと重なる。その糸はどこまでも伸ばしていけるし、どんな素材にも使える。そしてその縫い合わせたもの同士のあいだにはただ私しかいないと感じるとき、そこに至上の悦びがある。

自らが見たもの聞いたもの感じたもの。それら全てが私の外付けハードディスクとなって無限とも思える力を分け与えてくれる。いわば歴代プリキュアみたいな感じである。

そんな私も現在、この自分の指向性・思考性・嗜好性全てに背いた意味のわからん事務仕事で半日潰している。正直めちゃくちゃ時間がもったいない。ぜひとも数年後の私には、今の私に自慢できるような、深く言葉に携わる仕事についていて欲しいものだ。

ああ、そうこうしている間にまた一本、ダメになってしまった。もうすっかり真っ黒だ。

ほら、やはり「バナナと言ったら」…「黄色」ではないのだ。

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