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言葉もデザインであることを思い出したある日|なんでもない人のちょっとした気付き

最近noteの更新がぱったり止まっていた。

忙しくしていた。
久しぶりすぎて、こうしてPCの文字を打っていても何となく”書くこと”に
身構えている私に出会う。

それでもやっぱり、「書く」という自己表現が好きだ。

ほんの少し前、この書くという行為が自分の心のうっぷんを吐き出すこととイコールになり、noteのつぶやきは心のトイレになった。
うっぷんや自分のネガティブなものを発信できる場所があることはもちろん大切なことだけれど、そればかりになってしまうと本来自分の居場所に感じていた場所は、戻りたくない場所に変わってしまう気がする。

温かい紅茶と曇天の窓を前に、発光する画面に向きあう私の顔は笑顔だ。

ここ最近、デザインの仕事を少しだけさせて頂くようになった。

面白い。
とっても、とっても。
期待されることが不安の種ではなく、心と身体のエンジンになる。

canvaやパワーポイントでイラストや写真を組み合わせて
どんな字体が合うのかを考えて。。

「こんな風にしたい」を視覚的に形にしていく中でふと
普段、自分が話す言葉はいったいどんな形をしているだろう

そんなことを考えた。

友だちと居る時、家族といる時、仕事をしているときetc…
私たちはその時々に合わせて自分の考えを言葉にする。
それは時に、明朝体、MSゴシック、はなぞめ、あんず文字、はたまたふい文字、カラーだって何色でも良い。

けれど、私は歳を重ねると共にMSゴシック、明朝体、、
そしてカラーはブラックのみ。
誰もが良く使うベーシックな字体と色で話すようになっているような気がした。

それは世間体?立場?役割?
そんなものを気にしているからなのか。

字体の種類は沢山あるし、カラーも合わせたらその組み合わせはどれほどのものになるだろう。

話す言葉も私らしさをデザインしていきたい。
小さい頃にそうだったように。

曇天とはいえ春終盤の緑は色濃く、そしてとても力強い。
今日からまたこの場所が心の拠り所になりそうです。

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