1月11日 人のものとしてのマネジメント
#ドラッカー365の金言 #人のものとしてのマネジメント #マネジメントとは人にかかわることであり善悪にかかわることである #一緒に仕事をしている人に悪い人はいませんか #そのことについて何かできることはありませんか
マネジメントとは、仕事の絆で結ばれたコミュニティとしての組織において機能すべきものである。共有する目的のもとに、仕事の絆で結ばれたコミュニティとしての組織のものであるからこそ、マネジメントとは人にかかわることであり、善悪にかかわることである。
私自身、大学で宗教学を教えていたころよりも、コンサルタントの仕事を通じてより多くの神学を学んだ。(「マネジメントの仕事を教える」『ニューマネジメント』誌収録)
タイトルの「人のものとしてのマネジメント」とは、またわかりにくい表現です。「人のものとしての」ってどういう意味なんでしょう?人間以外にマネジメントが関係することがあるんでしょうか?
タイトル原文は ”Management and Theology” (経営(者)と神学)です。
theology とは神学のこと。
[名](複-gies)
1U(特にキリスト教の)神学
2UC神学理論[体系]
神学とは?
宗教、特にキリスト教において、その教理を体系化し、信仰の正統性や真理性、また、その実践について研究する学問。
キリスト教神学(キリストきょうしんがく)とは、キリスト教信仰に関する神学である。イエス・キリストへの信仰を絶対前提としているので、宗教学とは異なる。常に時代や文化の中で営まれていくものであり、時代や文化に画一的に規範となる神学は存在しない[1]。キリスト教神学者は、聖書を釈義し、分析し、また、理解を助け、講解し、キリスト教を弁護し弁証する。 神学は神学者にキリスト教の真理をより理解させ[2]、キリスト教と他の伝統を比較し[3]、批判者からキリスト教を守り、教会の改革を助け[4]、伝道を進め[5]、現代の必要に役立てるためにある[6]。
聖書を釈義し、分析し、また、理解を助け、講解し、キリスト教を弁護し弁証する学問。(とすると、ここに綴っている我々の文章もドラッカーの言葉を釈義し、分析し、また、理解を助け、講解し、キリスト教を弁護し弁証する「ドラッカー学」なんだね(笑))
どうやらちょっとわかりかけてきたぞ。
今日の言葉は
経営は人間を扱い、組織を扱い、社会との関わりを扱います。損得もある世界の中で、経営は人間の本質を学び善悪を扱います。一方で神学は聖書からキリスト教義を学び、神と善悪を扱います。両者は同じ学びであるけれど、経営は生きた社会から己のできること、果たせる社会的責任を知り、学び続けて己を改めていく中で善悪を判断します。実社会においてコンサルとしてクライアントの経営課題解決に取り組んでいる中では善悪判断が重視されていた。この経験は大学で神学を学んでいた時よりも善悪に関する学びは深いものだった。
ということのように感じました。
儒教に親しんだ日本的な経営感覚で言えば、
経営は「利」と「義」を人から学び、神学は神から「義」を学ぶ。コンサルとしてクライアントの経営課題解決(善悪)に向き合うことは、「利」ではなく「義」で判断することだった。それは学問で「義」を学ぶよりも、いっそう深い学びが得られた。
ということなのかな。どちらも善悪を学びますが、人間から学び、人間を理解するマネジメント(経営)の方がより深く神学の教義が学べた、ということだろう、と感じました。
経営は、損得よりも善悪。マネジメントの中心にあるのは、お金でははなく人間であり、人の組織だから。そこを間違えるなよ、という声が聞こえてくるようです。ふう。なんかスッキリしてきました。こちらのマガジンもよろしく!
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