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6月22日 Goal and Vision for Work 仕事の道しるべ

おはようございます。今日も #ドラッカー #365の金言  と共に、やっていきましょう。

#6月22日  
#Goal_and_Vision_for_Work
#仕事の道しるべ

#ドラッカー
#365の金言  より

今日の金言は・・・

#私は完全を求めてきた 。#だからこそ挑戦する責任があった。

 私は、ヴェルディが80歳で歌劇『ファルスタッフ』を作曲したときの「私は完全を求めてきた。だからこそ挑戦する責任があった」という言葉を忘れたことはない。その言葉は消すことのできない刻印となった。
 ヴェルディは、当時の私の歳であった18歳の頃には、すでに音楽家として名をあげていた。それに対し、私は何になろうとしているのかもわからず、わかっていることといえば、商社で働きつつも貿易商として成功することはなさそうだということだけだった。18歳にしては未熟だった。私が何を得意とし、何をすべきであるかを知ったのは、その15年も後の30代はじめになってからだった。
 しかし、私は18歳のそのとき、一生の仕事が何になろうとも、ヴェルディの言葉を道しるべにしようと決心した。何歳になっても歩きつづけることを決心した。失敗しつづけるにちがいなくとも、完全に求めていこうと決心した。

(『創生の時』)

ACTION POINT
#仕事においては完全を求めてください

 去年は、こんなことを記しました。

 幾つになっても、完璧求めて、仕事に取り組もう、という感じで記しました。

 今日のテキストは、『創生の時』(1995年)第1章 個人の創生 31〜33ページより。本書は、1994年から1995年にかけてドラッカーとダイエー創業者中内功氏との往復書簡をまとめた2冊目の著書です。

 1冊目の『挑戦の時』では、経済、社会、企業の大きな変化と挑戦について、2冊目の『創生の時』ではこの変化の時代における課題、1人ひとりの人間として、企業として、社会として、そして政府として、いかに自らを再生するかという課題に焦点を合わせて対話がなされたといいます。

 今日のテキストは、『創生の時』での対話より。同書において、若き日のドラッカーがヴェルディ80歳に書いたオペラ『ファルスタッフ』にいたく感動した、というエピソードから、

いかに歳を取ろうとも、決して諦めずに、目標とビジョンを持って自分の道を歩き続けよう、そして、その間、失敗し続けるに違いなくとも、完全を求めていこうと決心したのです。

同書、33ページ

という決意をしたことが記されています。

 90年代は、絶頂期とその後のバブル崩壊という未曾有の日本経済崩壊に見舞われ、「失われた20年?30年?」に多くの経済人が苦闘する時期でした。中内氏にとっては、このドラッカー氏との往復書簡が交わされている中、1995年1月17日未明、阪神淡路大震災が発生。

 80年代に売上1兆円、小売業日本一を誇ったダイエー帝国も、このバブル崩壊で、土地インフレ前提で出店計画を組んでいたダイエーの戦略はデフレ経済の波をモロ被りの中、膨らんだ負債の支払い処理に追われていたタイミングで起こった大震災。この大震災がダイエーにとっても中内氏にとっても「泣きっ面にハチ」。

 ダイエーは、4店舗が全壊、総額400億円にものぼる被災、この1995年2月期、同社は創業後はじめての赤字決算となりました。

 以降も苦戦の道が続きます。72年に小売業日本一、80年に売上一兆円、そして、91年に経団連副会長まで駆け上がり、「日本の流通王」として業界の覇者となった中内氏を持ってしても、事業撤退へと追い込まれました。

 ダイエー・ホークスはじめ、多くの不動産や資産を売却処分しながら、社内では権限委譲を進め、これまでの中内カリスマ型経営からトロイカ体制へと経営体制を変え、経営改革から苦境脱却の道を模索、キャッシュフロー捻出と新事業創出へと経営陣は東奔西走し続けました。

 グループ全体が撤退戦を余儀なくされる中、中内氏は、戦地フィリピンで部下を見捨て逃げる上官たちの姿を思い出したそうです。普通の経営者なら、なりふり構わず、大胆なリストラを決行し、多くの血を流しても、会社を守る、という手法を取ったのでしょうが、厳しい戦況の中、次々に仲間が死んでいく厳しい戦場を過ごした中内氏は、たとえこの身はどうなろうとも社員の雇用だけは守ろうと努力される優しい人だったとききます。

 ファミレスの「フォルクス」「ビッグボーイ」、ハンバーガーの「ウェンディーズ」「ドムドムバーガー」、コンビニ「ローソン」お弁当の「ほっかほっか亭」、ディスカウントストア「ハイパーマート」などのグループ企業に人材を回し、将来の起死回生を計るも、どのグループ企業もバブル崩壊後の長期の消費低迷からは逃れられず、その中、1997年アジア金融危機が勃発、これからの情報社会到来を見越して投資してきた虎の子のコンビニ・ローソン、リクルートというグループにおける飛車・角クラスを手放すこととなり、グループ企業もダイエー本体も存続の危機を迎える中、努力の甲斐なく2001年中内氏はCEOを退任。2004年12月所有するダイエー関連資財をすべて処分、2005年8月、83歳で死去されました。

 90年代は、バブル経済の短い頂点から一気に崩壊が起こり、「失われた20年?30年?」の始まりでした。この長期不況により、日本経済は多くの変化を余儀なくされ、今も苦境から脱することなく、感染症流行による不況期を迎えています。

 90年代は「総合」から「専門」へ、「家」から「個」への時代。

http://www.study-mirai.org/works/the_world_compass0405.htm より

 90年代は、バブル崩壊という大きな変化、というより、破壊的な衝撃が起こりました。しかし、一方で、さまざまな業態が発展した10年間でもありました。

 「総合」を標榜する百貨店やフルラインアップを揃えたGMS(総合スーパー)を謳ったダイエー他流通業が経営に苦戦したのとは対照的に、強みや専門性に特化した専門チェーンが伸びた時代でもありました。

 安さに特化したディスカウントストア。1973年日本初のディスカウントストアとしてスタートした「ロヂャース」、1989年「ドン・キホーテ」が市場参入し、ディスカウント市場が拡大。

 100円に特化した100均。1977年ダイソーが、1987年セリアが、1993年キャンドゥといった「100均ショップ」市場が90年代に拡大。

 できることは自分で、というDIY市場に特化した巨大ホームセンター。多くのショッピングモールに進出、「ホームセンタームサシ」「カインズホーム」などが成長。

 家電や携帯電話販売に特化した家電スーパー。「コジマ」「ケーズ」「ジョウシン」といった家電量販スーパーの隆盛。

 紳士服に特化したメガチェーン。「洋服の青山」「AOKI」「はるやま」といった紳士服チェーンなど専門業態のメガストアチェーン店が次々に展開。

 そして、不況期にブランド衣料が業績を苦しくする中、廉価でありながら、デザイン的に秀でて、しかも、街中ではなく、ロードサイドに展開した「ユニクロ」の著しい成長が始まった10年間でもありました。

 それは、携帯電話が爆発的に普及し、「家」単位から「個人」単位へと情報の伝達が変化した10年間でもありました。

https://honkawa2.sakura.ne.jp/6350.html より

 1993年にわずか3.2%の普及率しかなかった携帯電話は、10年後の2003年には94.4%へとほぼ全世帯が持つほどに急成長。

 また、コンビニも90年代は急成長が続いた10年間でした。1990年に売上2.3兆円・16466店舗でしたが、1999年には売上6.4兆円・37562店舗と急増したからです。

http://honkawa2.sakura.ne.jp/5616.html より

 (余談ですが、この当時、とある居酒屋チェーンに加盟していた田舎のお店で店長をしていた、私の友人は、チェーン店で全国一の売上を叩き出していました。チェーン店ですから、一定の人口商圏に出店して、同じものを調理し出しているから、本来売上が突出することはありません。しかし、彼は、ダントツの売上を生み出していました。その理由も、この「家庭」から「個人」という「大きな流れ」に乗っていたからでした。)

 とはいえ、「ダイエーがおかしくなったのは、中内氏が愚かだったからだ。ダイエーはカリスマ型経営で、恐竜のような巨体だったから、時代の移り変わりに素早く対処できなかったから衰退したんだ」と後知恵で、論じるつもりはありません。

 当時、同社は、経団連のトップ企業であり、取引先も優秀な企業ばかり。インフレを前提として、土地投資から事業展開することで、成長を実現してきた方法は、当時は「王道」であり、多くの金融機関が借入して土地保有してください、と売り込みをかけていました。

 中内氏は「流通革命」を標榜した通り、流通網の整備に力を注いだばかりか、IBMの大型コンピュータを導入し、電算処理にも明るく、経営合理化にも熱心。
 さらに、リクルートの情報をローソンのコンビニ店舗で入手できるようにしてもっと便利な世の中を提供できる、と読んだ情報投資から事業化を目論んだ先見性など、ちょっと思いついただけで、数々の「改善」「社会の進化」につながる活躍に貢献されました。

 1兆円もの売上があり、人・モノ・金・情報・人脈と揃っていた「ダイエーがおかしくなるはずがない」と誰もが思っていたのです。それが落とし穴だったのです。

どんなに準備していても、うまくいかないこともあります。しかし、今日のドラッカーが記しているように、

 いかに歳を取ろうとも、決して諦めずに、目標とビジョンを持って自分の道を歩き続けよう、そして、その間、失敗し続けるに違いなくとも、完全を求めていこうと決心したのです。

同書、33ページ

という決意でもって、己を貫くこと。これも素敵じゃないかと思う次第です。今日を変えていこう。愛を込めて。

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