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「経済とはつまるところ、胃袋をいっぱいにすることであるが、経済が全てではない。 」とドラッカー。 1月22日 Economics as a Social Dimension 1つの側面としての経済

#1月22日  
#Economics_as_a_Social_Dimension#社会的側面としての経済学
#1つの側面としての経済


本日のテキストは、『 #すでに起こった未来 』(1994年版) 第2部 #社会における経済学 の序文(29〜30ページ)から。

 経済は唯一の領域ではなく一つの側面にすぎない。経済は絶対的な決定要因ではなく、制約要因にすぎない。経済的な欲求や満足は、重要ではあっても絶対ではない。そして何よりも、経済活動、経済機関、経済合理性は、それ自体が目的ではなく、非経済的な目的のための手段にすぎない。すなわち人間的目的や社会的目的のための手段であるに過ぎない。

ドラッカーは、
「経済は重要であるものの唯一の領域ではなく、1つの領域に過ぎない。経済活動・経済期間・経済合理性は、それ自体が目的ではなく、非経済的な目的のための手段にすぎない。すなわち人間的目的や社会的目的のための手段であるに過ぎない。」

と記していて、「経済領域は、人間的目的や社会的目的じゃない。手段である。」としている。

胃袋を満たすこと=経済 が生きる目的という「胃袋があって道徳がある」という言葉もあるが、「人はパンのみに生きるにあらず。」という言葉もある。

腹が減る=いつ食べれるかわからない恐怖、不況、不景気、恐慌、そして、見えない将来への不安がナチズムへと人々を駆り立てた、とドラッカーは「経済人の終わり」「産業人の未来」の2冊で記しています。

まずは「胃袋を満たすこと」が優先するものの、胃袋を満たしたら、次は、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求という人間的目的や社会環境の改善へと歩むものと信じたい。

「人はパンのみに生きるにあらず。」という言葉があるように、

今日もやっていきましょう。

#ケインズは財の動きに関心をもち私は人の行動に関心をもった

 私は、体系としての経済学がその基礎とし、それなくしては存立しえないとする基本的な前提を受け入れない。すなわち、経済を支配的な領域として受け入れることはもちろん、独立した領域としても受け入れない。

 経済はたしかに重要である。ベルトルト・ブレヒトがいったように「胃袋があって道徳がある」。経済とはつまるところ、胃袋をいっぱいにすることである。私自身、政治や社会にかかわるあらゆる決定において、コストを計算し考慮に入れるべきことを強く主張してきた。便益だけを論ずることは無責任であって、無残な状況をもたらすだけである。私は自由市場に代わるものについてあまりに多くを目にしてきたがゆえに、自由市場を信奉する。しかしそれでも私にとって、経済は唯一の領域ではなく一つの側面にすぎない。経済は絶対的な決定要因ではなく、制約要因にすぎない。経済的な欲求や満足は、重要ではあっても絶対ではない。そして何よりも、経済活動、経済機関、経済合理性は、それ自体が目的ではなく、非経済的な目的のための手段にすぎない。

 つまり私は、経済学を独立した科学とは認めない。私は経済学者ではない。このことを私は1934年、ロンドンの投資銀行の駆出しのエコノミストとして、ケンブリッジでケインズのセミナーを聴講したときに知った。そのとき私は、ケインズが財の動きに関心をもち、私は人の行動に関心をもっていることを知った。

(『すでに起こった未来』)

ACTION POINT
#決定を行なうときには
#最後の30分を割いて
#顧客や社員への影響を検討しつくしたことを確認してください


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