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糞袋たちの清潔騒ぎ

 この「コロナ禍」と呼ばれる数年間の間に、学校や職場など、人々が集う場所では様々な「対策」を取ることが求められた。

 その一つに、紙の配布物を避けるという「対策」があった。紙を介して感染が広がることを防ぐための対策である。
 大学では、レジュメの配布は紙では行わず、ホームページから各自ダウンロードし、必要に応じて印刷するという対応を、多くの教員が取った。また、出席確認のような学生側から教員へ提出する書類も、その場で紙を配って回収するのではなく、オンラインで提出する形式が採用された。

 これには主に二つの見方がある。一つは、便利になった、というものだ。配布や回収の手間が省けるし、資源の節約というアピールもできる。

 けれども、私は、この「対策」に出くわすにつけ、もう一つの見方をせずにはいられなかった。

 それは、誰かの触ったモノに、「何か」が付くことを嫌悪するということ。それは私が小学生くらいの時に見た、からかい、あるいは「いじめ」を連想させた。

 「エキス」という言葉がある。薬物などの成分を濃縮してできた液体のことである。
 小学生のとき、誰かの手が触れると「〇〇のエキスが着いた」と言って逃げ回ることをやっている人たちがいた。もう随分経っているのにいまだに覚えているのだから、よほど不快だったのか、いやあるいは自分も面白がっていたのかもしれない。とにかく、そんなことがあった。

 もう一つ、これは忘れもしない。高校生のとき、私は体調を崩して休んだことがあった。おそらく食中毒だった。体調が回復して登校した日、前の席の人と喋った際に、私の休んだ理由の話題になった。「食中毒だと思う」と私はあっけらかんと言ったのだが、そのとき彼はとっさに私の机から手を離し、こう言った。

「うつる」

 不快この上発言だが、もちろん私は人やモノを介して感染症が広まることを否定したいのではない。人との接触によって様々な感染症が広がることはたしかである。コロナウイルスは紙、プラスチック、マスクなどの表面では数時間から数十日生き残るという。これは各種公的機関がHPで発表している公式見解だ。ペーパーレスやキャッシュレスといったモノのやり取りを減らすことが感染予防に効果的であるということも認められている。手洗い、消毒、アクリル板等々、様々な「感染対策」が取られた、そのことそのものに反対しようなどとは思わない。私たちは「きれいなもの」を扱おうとし、「汚いもの」を避けたり排除したり浄化したりする。当然といえば当然だ。

 ただ、考えてみれば分かるように、この世は「きれいなもの」と「汚いもの」の二種類だけで作られているわけではない。と言うのも、そのものが「きれい」か「汚い」かを分かつのは、科学ではなく文化であるからだ。

 例えば、納豆を初めて見て、これが安全な食べ物であると思う人は稀有であろう。だが私たちは(と言っても私は嫌いだが)それが安全で美味しい食べ物であると知っている(繰り返すが私は嫌いである)。それが腐敗ではなく、発酵であると知っている。ところが、腐敗と発酵のプロセスはどちらも同じであり、明確な違いがあるわけではない。アイスランドの伝統料理ハウカットルはサメ肉を地面に埋めたり干したりして作る発酵料理だが、強烈なアンモニア臭を放つ。スウェーデンのシュールストレミング、韓国のホンオフェはそれぞれ世界で最も臭い食べ物の1位と2位と言われる。また、イタリアにはウジ虫で発酵させたカース・マルツゥというチーズがあり、これは体内に入ったウジ虫が健康障害をもたらす恐れがあることから法的規制がかけられているトンデモな食品である。これらの食品を日本人が初見で食べ物だと認識することはほとんどないだろう。

 要するに腐敗と発酵を分けるのは科学ではなく文化だということだ。つまりは、何がきれいで何が汚いかを判断するのは私たちの考え方だということだ。と言うと、「いや、きれい汚いの違いは細菌やウイルスの有無、多寡で明示できる」と反論する人がいそうだが、それは事実に基づいた判断をしているだけであって、きれい汚いは事実そのものではない。ウイルスや菌やウジ虫を「汚い」と言うのも、私たちの勝手な判断なのだ。例えば寺田寅彦はこんなことを言っている。

蛆がきたないのではなくて、人間や自然の作ったきたないものを浄化するために蛆がその全力をつくすのである。

寺田寅彦「蛆の効用」

 私たちの身体だって、様々な菌類やウイルスが付着しているのである。付着しているだけでなく、体内にそれらをどっさりため込んでいる。そしてそれを常時周りにまき散らしながら生活している。それをどう捉えるかは、社会のありよう、それはとりもなおさず、私たちの考え方にかかっている。寺田寅彦は上の随筆の続きで、ばいきんを吸い込みのみ込むことで抵抗力を獲得するという話を書いているが、最近の研究でも明らかになった様に、子供の頃から泥遊びなどを通して様々な細菌に触れた方が将来にわたって健康でいられる可能性が高い。過度な「殺菌」はむしろ耐性菌を生み、害となる。2004年のコロンビア大学の研究では殺菌成分入りのハンドソープや洗剤を使ったグループと、殺菌成分が入っていないものを使ったグループに分けて、48週間にわたって感染症の症状の追跡調査をすると、発生率には大差ないことが明らかになった。そして2016年には、アメリカ食品医薬局が特定の殺菌成分を含む石鹸の一般販売を禁止した。殺菌すれば感染症が予防できるという確証はなく、また完全な殺菌はそもそも不可能で、さらに殺菌が耐性菌を生む原因になるのなら、「殺菌、殺菌」とうわごとのように叫ぶ必要などないのである。

 前に戻ると、小学生たちのエキス騒ぎについて、人が触った者にその人の体液が付着するのは当然と言えば当然なのだ。それを「汚い」と言い、ひいてはその人そのものを汚物扱いするところに問題がある。高校のときの一件も、私の身体に何らかの原因菌が付着してることはないと主張する根拠を私は持たないが、「付着している」というその事をもって人を忌避する態度に怒りを覚えるのだ。シェイクスピアの「マクベス」の冒頭で魔女たちが、「きれいは汚い、汚いはきれい」と言ったように、人が変われば清・汚の判断はまるっきり違ってくる。あなたは何を、どう判断するのか。

 口移しは虫歯菌がうつると言ったり、マスクなしは飛沫が飛ぶと言ったり、手渡しは菌が付くと言ったり、指摘していけばキリがない。それは息苦しい。キレイとか汚いとか、そんなことをいちいち考えながら人は生活していない。本当の「きれいな」世界は、人がいない世界だろう。赤銅でできた、冷たい世界である。長者の娘を嫁にもらうことを拒否するためにブッダは、女人など糞のつまった汚らわしいものだと言い放った(『スッタニパータ』835)。所詮われらは糞袋。糞袋同士、コロナ禍のあれやこれやの感染対策を、いつか水に流して気楽に語り合えばよいのである。

《参考》


#清潔のマイルール


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