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おもかげ

 古い日本語。それは古事記や万葉集の中の言葉だろうか。もちろんそれは古い日本語であるに違いない。が、それよりも古い日本語のまとまった記録はなく、太古の日本語がそのような言葉だったという確証はない。それらの言葉は、「この列島上に、言葉が多様な声ばかりで賑わっていた長い長い時間の後、きわめて知的な選択や整備を経て、外来文字でしるされた文字上の言葉だからである」。

 声だけの言葉は、時の彼方に姿を消した人々とともに消え去って、カタチが遺ることはない。しかし、消えてしまった人々のコエの一部は、別のどこかの人々に共有されていたコエとして伝わり、それが繰り返されて、今に生き続けている場合もある。本書は、今ある言葉に響く原始のコエと、そこに託された思いを、今から昔へ、昔から今へと、こもごもたずねる旅である。

以下は「ヨム」という言葉についてである。

「ヨム」という言葉は、「本をヨム」といった使い方をされることが多い。しかし、今でも奈良では「紙の枚数をヨム」と言うことがあるという。鎌倉中期の語源随筆『塵袋』には、「もののかずをかずうるを、よむと云ふは下賤の詞か」という作者の問いがあり、鎌倉の頃も、少なくとも京の識字層の人々は数を「カズフ」と言ったが、下々では数を「ヨム」と言っていたらしい。
数を「ヨム」と言う例は『古事記』にも登場する。「因幡の白兎」である。菸岐島の兔は、島から陸へ渡るのに、自分の同族とわにと、どちらが多いか比べようと言ってわにを島から陸へ一列に並べさせ、それを伝って海上を移動する。そのときに「ここに吾その上を蹈みて、走りつつ読み渡らむ」と言ってわにを騙す。
その「ヨム」は万葉集にも十首に出るが、単純に数をヨムのは一首のみである。あとは、「月日をヨム」という意味で使われる。次の歌は待ち遠しく月日を数える歌だ。

白たへの袖解き更へて還り来む月日を数みて行きて来ましを

この「月日をヨム」系の歌を大伴家持も二首残している。しかしそれらは些か趣の異なる歌だ。

ぬばたまの夜わたる月を幾夜経とヨミつつ妹は吾れ待つらむを
月ヨメばいまだ冬なり しかずがに霞たなびく春立ちぬとか

ここでのヨムは実際に月の満ち欠けの推移を見て、日を数えるということだという。そこで、だ。月をヨムということでいえば外せないものがある。「月読尊(つくよみのみこと)」である。天を照らす日の大神(天照大神)、荒れすさぶ嵐の神(スサノオ)に並び、「月ヨミ」が月の神のいわば端的な役割というわけだ。「ツクヨミ」には「月読」と「月夜見」のいづれかが当てられるが、天照やスサノオの命名法に対応しているのは「月夜見」のほうで、「月読」だと、ヨムのが巫者側になってしまう。ただし、「月読」とする書には、スサノオから命ぜられたその役目は「滄海原の潮の八百重を治(しら)す」とある。「潮を治す」は生活を海に託す人々には極めて重要なことである。潮の干満、大潮や小潮の日が、月の満ち欠けと対応していることを、海人びと達はよく知っていた。空の月の位置や満ち欠けの周期を観察することで、日ごと月ごとの先々の月をヨミ、それに対応する潮時をシル(知・治)ことができる。月読尊の役目とは、空の月と海の潮とのそうした関係を熟知した人々の認識から出た言葉だろうと著者は推測する。
だが月の形の推移を当日の月だけで判別するのは難しいし、雲が出て観察できないこともある。だからこそ、夜ごとに数を加え、それを声に出して記憶に留め、確認していたのではないか。ヨムとは声に出して唱えながら数を確認することでもある。歌を「詠む」、「読経」、「素読」もそうだ。そして繰り返し読むことで理解が深まり、「読み取り、読み解く」ことに繋がる。しかしそれは目前のことから先々のことを知るという「ヨム」ことの本質に一脈通じている。「表情をヨム」「戦略をヨム」「先手をヨム」のような、唱えることでも、数えることでもない「ヨム」という用法も、その点で、往古の月をヨミ「潮時をしる」といったありようを、はるかに曳いた使い方である、と著者は結んだ。

奈良県立図書情報館でしこたま本に浸った帰りの電車でも、本書を読んでいた。本棚から適当に取ってきた本だったが、奈良への伴にはぴったりだった。電車内でひとり、本をヨム。本をヨムことは今ではさほど重要なことでも魅力的なことでもないのかもしれない。だが、古代の人々が月をヨムことで先を見通そうとしたこと、それは生きるために必要なことだったろう。文字がなく、コエだけが響いていた往時から、「ヨム」ことは脈々と続いている。月明かりに照らされた古代人の面影がふっとよぎり、刹那、令和の近鉄車内に引き戻され、微かに鼓動を感じながら本書を閉じた。

2022/07/22

読んでいただきありがとうございます。