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Jesus Christ Superstar 2021観劇まとめ

東急シアターオーブで上演されている「Jesus Christ Superstar」を観てきました。

過去に劇団四季の公演を観たことがあり、映画や最近のサントラも聴いたことがある大好きなミュージカルなのですが、今回のキャストはベストでした…!

キャストについて

まずユダ役のラミン・カリムルーがめちゃくちゃ上手い…!歌はもちろん、歌い終えた後も派手な動きはなくても視線や表情でしっかり演技してる。劇団四季のユダはとにかく焦燥感にかられている雰囲気だったけど、このユダはもう少し冷静で知的な印象です。

他のキャストもすごくレベルが高かったです。マイケル・K・リーが演じるジーザスは歌唱はもちろん、要所で出てくるシャウトがかなり好きです。

マリアの優しい歌声も素敵。曲もあいまって、これは癒される…。このマリアは当然マグダラのマリアなのだけど、民衆の熱狂に満ちた空気を穏やかに一変させる聖母的な印象をうけました。
劇団四季やサントラ版のマリアは、恋する女性として悪意なくジーザスを堕落させにかかってる感があったので、解釈が少し違いそうです。この舞台のマリアは母親や姉のような雰囲気。あまりにも邪気のない慈しみをみせるものだから、ユダの「商売女め」の謗りを空ぶりに感じるくらい。

カヤパ、アンナスの低音パートが続くJesus must dieも良かったです。

どのキャストもとても良かったのですが、この舞台で個人的に一番の発見はヘロデ王でした。
1幕目、彼は出番なし。だけど舞台の一番高いところにしつらえられた玉座で我関せずとばかりに気怠そうにしている姿が妙な存在感をはなってます。2幕になってもあまり様子は変わらないのですが、たまに座り方が変わってるのがおもしろい。眠ってる猫を観察してる気分。
ピラトも出番が来るまでは暗がりに座っている姿が垣間見えるだけなのですが、ピラトがあまり姿勢を崩さずに舞台を静かに見守っているのとは対照的です。
それが2幕で唯一のパートに来た瞬間に覚醒w
突如ポーズを決めて拍手を求め、ポップな曲調で緊迫した空気をぶち壊してくる。

行政をになうピラトとも宗教的対立関係にあるカヤパたちとも異なり、ジーザス個人にも教義にも関心を示さず、おちょくるだけおちょくって退場。狂気の片鱗がみえて良い演技でした。

JCSのストーリーの中でのHerod's Songの位置付けは、あまりピンときていなかったのですが、このヘロデ王のおかげで少しつながりました。

聖書のヘロデ王はキリストの誕生を恐れて、予言にあてはまる幼児を虐殺していたり、洗礼者ヨハネを捕縛・処刑してたりするのですが、このヘロデ王はジーザスのことはあまり恐れていなさそう…?ジーザスを捕らえたことで予言の成就を阻止できたという安心感をえて、ふざけ倒しているのだとすると享楽的で浅慮、残酷な王のキャラクターがこのナンバーに表現されているようです。
ヘロデ王役の藤岡正明さんの演技のおかげで、理解が補完されました。

舞台演出について

舞台は鉄パイプと足場で組まれていて、基本的にモノトーンの世界に統一されていました。

鉄パイプと足場によって生み出される暗がりがスポットライトと合わせて、とても効果的だったと思います。民衆に相対する支配層としてはユダヤ祭司の他にローマ帝国の総督であるピラト、ガリラヤのヘロデ王が存在するのですが、ストーリーの序盤では二者の存在はたまに影のように浮かび上がるだけ。それでも居住まいや、わずかに見える表情から二者のスタンスの違いがおぼろげに読み取れるのが、民衆やジーザスたちとの距離感とも符合して良い演出でした。

衣装と小物使いについて

ジーザスと弟子たちがカジュアルなTシャツやカットソー、パーカーなどを着ているのに対して、民衆は意外と革製品ぽいロックテイストな衣装。
ユダヤ祭司たちはおしゃれなスーツ姿なのも立ち位置が示されていて良いです。祭司の華やかなスーツは、聖書のパリサイ人への批判「白く塗った墓」にも通じるものがあります。

この辺りの衣装合わせは、民衆としてコーラスに参加していたアンサンブル・アーティストの方が、別のシーンでユダヤ祭司サイドのコーラスに出てくる時にジャケットを羽織り変えてたりしていて、所属集団の性質を示す役割をはたしてました。

衣装の色彩に注目してみると、ユダとシモン、民衆、カヤパ、アンナスは黒い衣装。ジーザスは、登場時は白Tシャツにモノトーンの柄が入ったスカーフを首からかけています。ペテロは明るめのグレー。

色味がある衣装を着ていたのは、マリアとピラト。
マリアは緑がかった明るめのグレーぽい中間色で、白い衣装のジーザスに少しだけ近い立場で表現されていたようです。
ピラトは暗い赤色のジャケットを着用。

こうして見ると、衣装の明度は聖性に相関していて、色相はストーリー上の役割を象徴するような意味あいをもっていたのかもしれません。

これをふまえると、小物としてジーザスの白黒柄のスカーフが果たした役割がものすごく面白いです。

ゲッセマネを経てスカーフはジーザスからユダの手に渡ります。
このシーンをジーザスの衣装の変化として見ると、聖俗をつないでいたものが取り払われて白一色になり、いよいよ完全な聖性に近づいていく過程が象徴されているようです。

一方でスカーフを託されたユダは、一度はスカーフを舞台に置き去りにするものの、最終的にスカーフをふたたび手に取って自死の道具とします。これは単に首吊りのロープの代わりというだけでなく、スカーフ=ジーザスの命への呵責のメタファーのようにも思えます。

ジーザスがユダに託したスカーフは、ジーザスの人間性を表すものだったのかなというのが私の解釈です。

余談:贅沢すぎる"Could We Start Again Please?"

後から知ったのですが…。7月13日のスッキリ!にユダ役のラミン・カリムルーさんと、ジーザス役のマイケル・K・リーさんが出演されて、"Could We Start Again Please?"をデュエットされてたんですね。

この曲は、ジーザスが捕縛されてしまった後にマリアとペテロが歌うナンバーなのですが、このお二人のデュエットで聴けるとは…!

舞台をみた後で聴くと、ものすごくグッと来るものがあります。どうしてこうならなかった…!みたいな…。
マリアとペテロのデュエットとはまた別の魅力を感じさせるデュエットになっています。これがTVで放送されるなんて、とんでもなく贅沢です。

渋谷での公演は7月27日までで、まだチケットは買えるみたい。
2回目、観に行けないか検討中です。


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