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僕の原体験② ~兄との負けられない戦い~

2つ上の兄の下で僕は誕生した

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次男坊として、この世に生を受けた僕。
2つ上の兄貴の弟として、廣瀬家の元にやってきた。

とにかく何をやるにもアニキにくっついていた。
まぁ2つ差くらいの兄弟ともなると、皆そんな感じだろうか。

自分の息子たち(長男・次男)を見ていても、自分もこんな感じだったのかなーと思うくらい、次男のほうが負けず嫌い。

何をやるにも一緒。でも2歳も年が違うから、どの項目でも負けてしまう。

金魚のフンみたいに、とにかくアニキに喰らいつく日々。
そんな幼少期だったと思う。

習い事は全て一緒

習い事は記憶にあるものをザっと列挙してみると

・習字
・公文
・スイミング
・サッカー
・少年野球
・学習塾
・英会話

こんなもんだろうか。

サッカー以降(小学生以降)は自分だけで習いに行ってたが、習字、公文、スイミングはどれもアニキと同じタイミングで始めたと記憶している。

つまり次男のほうが長男よりも幼い年齢から始めれることになる。これって、実はめちゃくちゃアドバンテージ。笑

アニキについて「俺も!」と宣言することで、色々なことにトライさせてもらった。
習字、公文は結構長く続けたんちゃうかな。
おかげで字は綺麗なほうだし、計算もまぁ早いほうだと自負してる。
スイミングだけは嫌いすぎて仮病がバレて辞めることになった。笑

とにかくどこに行ってもアニキは常に相棒だった。

唯一習えなかったピアノ、その原因は弟の誕生

僕が今になっても記憶しているのが、このピアノ事件。

たぶんアニキが小学生で俺が幼稚園くらいの時に弟が産まれた。そのタイミングでどんな理由かはわからないけどアニキがピアノを習い出した。

その頃から負けず嫌いを発揮していた僕は、今までと同様に「俺も!」と声を高らかにピアノを習いたいと宣言した。

しかし習字と公文と同じようにはいかなかった。
習字は住んでいたマンションの1Fで、公文もすぐ近くだったので子どもたちだけでも行かすことが出来た。
でもピアノは少し遠い場所にあったため、産まれたての弟の面倒を見ないといけないオカンは、ピアノの送り迎えは難しい。
でもアニキと僕の二人だけで通わせるのは不安で仕方ない。

そう、弟が産まれたことで僕は同じ習い事を出来なくなってしまった。

高校生になって文化祭バンドを組み、それからバンド活動を本格的にすることになる僕だけど、この時にピアノを習っていたらメジャーデビューまでいけたんじゃないかというくらい、ピアノを習えなかったことを後悔している。

何かのタイミングの時に、このピアノ事件をオカンに言うと、オカンは決まって満面の笑みで「堪忍!」と返してくる。

まぁピアノを習っただけでは確実にメジャーデビューなんて出来るわけないのだけれども。

このピアノ事件以降、僕はアニキとは違うことを始めるようになったのかもしれない。

「ヒロセの弟」と常に呼ばれるように

小さい頃からだったと思うけど、常にアニキと一緒にいてた僕。
小学校、中学校と進むにつれて、先生からこう呼ばれるようになった。

「ヒロセの弟か!」

僕はこの呼び方がどうやらお気に召さなかったらしい。
僕は僕であるはずなのに、どうしても「智也の弟」となってしまう。

おそらくこのあたりから、アニキが憧れの存在から闘うべきライバルへと変化していったような気がする。

それからというもの、何をやるにしてもアニキに勝ちたい(何をもってして勝ちなのかは永遠にわからないが)という心が芽生えてきた。

そう、いつかアニキが「あのヒロセの兄か!」と呼ばれる日が来るために。

兄が医者になると宣言

そしてアニキが中学2年、僕が小学6年の時に、オトンのオカン、つまりおばあちゃんが癌で亡くなることになる。

※そのあたりのくだりはこっちの記事でも書いてます。

そんなオトンがワンワン泣いていたあの日。その日になんとアニキは「僕は医者になる!」と志を立てたのである。

おばあちゃんが亡くなる姿を見て、そんな人を助けることが出来るようにというもう教科書通りの最高の動機で、アニキは医者を目指すことになる。

幼稚園、小学校、中学校と同じ地元の公立校に進み、兄が先にこの地域では一応トップ校と呼ばれる公立高校(普通科へ、ちなみに理数科は受験したけど落ちた)に入学した。

ここでまず一つ目の勝負ポイントがやってきた。

同じ高校でも理数科へ入学すれば、アニキを上回ることが出来る!!

だが、当時の理数科は1学年に1クラスという狭き門。さらには3年間1クラスなのでクラス替えがないという地獄のような高校生活になることが判明する。

もし、同じクラスに気の合う友達や好きになれそうな可愛い子がおらんかったとしたら…バラ色の高校生活がなんとも切ないものになってしまう。

そう考えた僕は勝負ポイントを断念し、理数科の受験を放棄し、同じ高校の普通科へ進学することになった。

大学入学と同時にポツダム宣言

高校へ入学しても3年生にはアニキがいてるのである。
そう、またこの言葉が色々な場面で登場してくるのである。

「ヒロセの弟か!」

僕の高校生活や大学入試の話はまた別のnoteで書くとして。

医者になる夢を持ち続けたアニキは、現役で医学部を受験するも不合格。
予備校に通い、浪人生活を経て、見事第一志望である公立大学の医学部に見事合格することとなる。

※ちなみに浪人時代は僕が見る限り、朝から夜中まで冗談抜きで勉強をしまくっていたので、そりゃ受かるだろうと思っていた。
※弟は当時中学2年生。友達を呼んでは自分の部屋でワイワイしてると、勉強の邪魔をされて弟たちにぶち切れにいくという事件も発生していた。
※もう一つ付け加えておくと、何故公立大学にしたかというと医学部の学費は恐ろしく高い。しかも6年間。大阪市内に在住であれば学費が少し安くなるというのもあって最初から他の大学は視野に入れてなかった。なんと親孝行な長男なのか!笑

ここで2つ目の勝負ポイントだ。
しかし1つ目の勝負ポイントよりは明らかにハードルが高い。高すぎる。

だって勝つためには公立大学の医学部より上回る大学へ進学しなくてはならない。もうそうなってくると東京大学くらいしかない。そしてそんなの絶対ムリ。笑

ということでこのタイミングでアニキとの勝負のルールを勝手に変更することにした。

アニキが行った大学よりも世間一般に偏差値が高いとされる大学へ入学すれば、それはもう僕の勝ちという、なんともジャイアン発想なルール。笑

結果、高校時代は野球に明け暮れてロクに勉強しなかった僕は
現役時代は7つも受験して全て不合格。見事、浪人生活へと突入し
1年後に8つ受験して全て合格。見事、ジャイアンルールでは勝ちとされる大学への進学を決めた。

そしてそこで僕の勝ち(ホントは絶対に負けw)ということで
アニキとの終わりなき闘いには終止符が打たれることになった。

最後に

大学生以降はアニキは研修医を経て、そして今は大学病院で救命救急医として医療の最前線で今日も日夜闘っている。

かたや僕は、大学卒業後、塾講師を続けながらバンド活動、俳優を志して上京、断念して大阪でサラリーマン、そして起業。

もうこんなに違うのかというくらいの人生だ。笑

今思うと、2つ上にこんなにも真面目で努力のプロだったアニキがいたおかげで、僕も負けじと色々なことに挑戦できてきたのかなと。

おばあちゃんの巻でも書いていたけど、実際の頭の回転という意味では今でも負けていない自信はある。(まだ言うかw)

ただ、アニキはおそらく努力を続けることができる天才なんだと思う。

こんなに身近で天才を見れたおかげで、僕もなんとか一人前のおじさんになれてきたのかもしれない。

弟のことも書きたいのだけれども、おそらくこんな調子でいつか弟自身が記事を書くはずなので、その時にリンクでも貼ってやろう。
弟は、このアニキ2人と闘ってきた人生なのだから、おそらく僕よりも壮絶なはず。笑

いずれにしても兄弟がいる意味って、こういう身近なところに目指すべき相手というか負けたくない存在がいてるということなのかもしれない。

この想いがあるからこそ、自分も兄弟が多く欲しかったし、事実として男3兄弟のパパをしている。

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こいつらも、日々身近なライバルと闘ってるんだろうな。
兄弟って、いいぞ。

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僕の原体験シリーズ、書いてます。

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僕はこんな人間です。
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