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僕の原体験⑥ ~大学の4年間~

ついに第一志望としていた大学に入学を決めた僕は、前期試験の翌日から運転免許場に通い、入学式までに自動車運転免許を無事に取得。そして親が頑固として反対していた原付での通学(最寄駅から大学までがビックリするほどの坂道)も、親を連れていって説得に成功し、原付を購入。晴れて4月から大学生となった。

第一志望を神戸大学発達科学部にした理由

僕が神戸大学を第一志望にした理由。

①兄(大阪市立大学)よりも一般的に上とされている大学に行くため
②先生になりたかったので教員免許を取得できる学部に行くため
③バンド活動に精を出すために実家から通える範囲の大学に行くため

上記①~③の理由を総合的に判断した結果、神戸大学発達科学部の初等教育学コースへと進学することを決めました。

※①の理由は、僕の原体験シリーズ②をご覧あれ。笑

そうなんです。
僕、実は先生になりたかったのです。笑

理由は単純明快。金八先生に憧れたから。僕がちょうど高校生の頃に、第5シリーズが放映されていて。その影響もあるし、僕が中学生から通っていた地元の学習塾で出会った先生の影響もあった。

そして何を隠そう僕は子どもが大好きで。幼稚園か小学校の先生になりたいと思っていたし、現に発達科学部の初等教育学コースで取得できる免許は幼稚園と小学校の免許を取る人がメインだった。

入学と同時に始めた塾講師のアルバイト

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(塾の合宿での1枚。完全にチンピラな先生。笑)


僕は大学入学と同時に、先述した地元の学習塾「堀江ゼミナール」にて塾講師のアルバイトをすることになった。残念ながら、この塾講師も兄の影響であることは、もはや言うまでもない。笑

兄は既に大学入学と同時に先生をしており、塾長の荒川先生の猛プッシュもあり、決定的な一打は「時給が高い」ことだったことは、もはや言うまでもない。笑

当時では画期的な時給2,000円スタートと、今では考えられないような時給でアルバイトをすることに。ただ週2回、1日3h程度なので月で言うと5万くらい。ただ拘束時間を考えると夢のようなアルバイトだった。

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(後方左が荒川塾長。真ん中に陣取るのが僕。髪型イキってる。笑)


最終的には在学中4年間とロスタイムで2年間働き(ここに関してはまた後ほどの原体験シリーズで詳細を書くことに)、大変お世話になった。時給も最後は2,600円いただいていて、夏季講習などが重なったタイミングでは大卒の初任給以上のアルバイト代を稼がせてもらった。

でもお金より何より財産になったのが、教え子たちとの出会い。たくさんの教え子たちが、FOR Uで結婚式や二次会のプロデュースを依頼してくれた。「先生」って何歳になっても「先生」なんよね。感謝しかない。

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バンド活動とアルバイトの日々

そして僕は大学生活のほとんどを、バンド活動とアルバイトに費やすことになった。バンド活動に目覚めたのは遡ること高校2年生。

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(高校2年文化祭で組んだバンド、「JAY-BIRD」のライブ模様。恥ずい!)


丸坊主姿のボクは高校球児にも関わらず、有志で集まったバンドのボーカルを担当することになった。たぶん廣瀬なら盛り上げ上手やし、歌も下手ではないからのオファーだったと思う。

これがまた盛り上がる盛り上がる。一度も生で観たことのないHi-STANDARDやブルーハーツに魅了され、そしてステージに立つ快感を知った僕は、ぼんやりと音楽について理想を抱き始めた。ギターもろくに弾けない、楽譜なんて読めないこの僕が。

(その際にやった曲、NEW LIFE/Hi-STANDARD。今でもかっこいい!)


文化祭以降は特にバンド活動をせず、浪人時代の最初にライブをして以降、バンドも休止。浪人組が大学へ進学したのをきっかけにバンド活動を再開した。

結構真剣に活動をしようということで、オリジナルの楽曲を作り、デモテープ(テープw)を制作し、大阪中のライブハウスに出演を繰り返していた。天保山ベイサイドジェニー、三国ヶ丘FUZZ、梅田アムホール、福島セカンドライン、江坂ブーミンホール、神戸スタークラブ、チキンジョージなどなど。


今でこそ超有名なlocofrank。当時はまだ相撲茶屋という名前の3ピースバンドで、三国ヶ丘FUZZで対バンをした時は度肝を抜かれたことを今でも鮮明に覚えている。

バンド活動のことは、またどこかの回で詳しく書くことにするので、このあたりにしておこう。

親に無断で取得したバイク免許

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冒頭で、大学入学と同時に原付をGETしたことは記していたが、原付に乗っていてバイクに興味が湧かないわけがない。笑

当時、親からは「頼むからバイクだけは絶対に乗るな」と口を酸っぱくして言われていた。おそらく今の自分でも息子がバイクに乗りたいと言えば止めるだろう。だって万が一の事故のことを考えた時に、身体を守ってくれるものなんて何ひとつないんだから。

でもそんなことは大学生当時の僕にとっては、知ったこっちゃない。親にアカンと言われて辞めていたら男が廃るとまで思っていたのか。僕は親に内緒でバイクの免許を取得し、そして内緒でバイクを買って既成事実を作ってから事後報告をする作戦に打って出た。

当時、塾講師のアルバイト代だけではそんなお金が貯まるわけもなく、他のアルバイトを掛け持ちしようということで、先日倒産してしまった「づぼらや」のホールアルバイトとして梅田店で週3回くらい働くことにした。

づぼらやで稼いだお金で京都のバイク専門の教習所にこっそり通い、そして念願のバイク(フュージョン、そして大好きな深緑への塗装)を購入し、無事に自宅に乗り付け、親からは呆れられてバイクに乗ることになった。

このフュージョンとは色々なところへ出かけたなー。四国1周もしたし、フェリーに乗せて北海道も行った。

不真面目だった大学生活、週2回くらいしか神戸行ってなかった

大学の授業は今でこそ色々なIT技術が発達して、代返(欠席した者の代わりに返事をすること)などは難しいだろうが、当時の国立大学はそのあたりはまぁなんとも緩いの一言。

絶対出ないといけない授業(代返できない、人数が少ない)以外の授業は、僕はほとんど出席せずに、アルバイト、バンドの練習、そして深夜まで遊びを繰り返していた。

授業の感想は女子に筆跡を変えて書いてもらっていたし、声の返事も声色を変えて返事してもらうなどして、どうすれば授業に出なくて良いかを真剣に考える、今思えばどうしようもないくらいにクソみたいな大学生だった。

週2回の神戸も最低限必要な授業だけ昼からバイクで神戸にいき、授業に出た後は友人たちと六甲山へツーリングなんて、絵に描いたような学生生活を送っていた。

ひとつ心残りは、下宿をしなかったこととサークルに所属しなかったこと。

下宿をしている子たちは学部の垣根を超えて仲良くなり、その後も一生の友達になっているようだけど、僕は他学部の友人はほとんどいなかった。サークルも同様。二次会の幹事をしている時に、友人の余興などでサークルのメンバーからの余興などを見ると、「あぁなんでサークルに入らなかったんだろう…」といつも思っている。笑

それでも出来た親友2人、クワマンと森口

TOPの写真のボクの左右に陣取っているのが、僕が大学で出来た親友の2人。

左:クワマン(四条畷高校卒、東京在住、某有名IT企業に勤める2児のパパ)
右:森口(北野高校卒、神戸在住、大阪府立の高校の社会科の先生)

この2人は同じ学部で、そして大阪の公立高校出身、そして一浪(全員予備校は違う)だったこと。

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そして予備校に同じ高校出身の子がいたために、「こんなやつがおるで」と情報をもらっていたこともあって、入学してからすぐに仲良くなった。お互いの家を行き来し、深夜のスーパー銭湯で夢を語り合い、当時の彼女をそれぞれが連れて長島スパーランドにトリプルデートにもいった。(全員がその彼女とは別れたのは内緒の話。笑)

今はお互い仕事もあり家庭もあり近くに住んでないこともあり全然会えてないけど、親友って会える回数じゃないもんね。今でも困った時は連絡をするし、連絡をくれる最高の関係です。おじいちゃんになったらスーパー銭湯にまた行きたいなー。

最後に3人であったのは森口の親父が癌で亡くなった時に、クワマンが東京から終新幹線で駆けつけてくれて新大阪で拾って、そのまま箕面まで行った時かもな。

また3人でゆっくり飲みたい。そんな友人に出会えたことは大学4年間で僕が得た財産だと思う。

途中で変更した取得免許の種類

当初、僕は幼稚園か小学校の先生になるコースに進んでいたのだけれども、塾で先生をしている時から、少しずつ違和感を覚え始めた。

小学生を教えていた時、塾と言えども勉強だけじゃなくて生活指導的な側面の場面もいくつかあって。大人として、先輩として説教することもあったのだけれども、これが見事に小学生にはハマらない。怒った次の日から先生を無視するなんて当たり前。怒ったことの意味のなさに嫌気がさすこともあった。

一方、中学生や高校生は真剣に僕の話を聞いてくれて、次の日から目の色を変えてくれることも多々。真剣にぶつかれば真剣に答えが出るほうに興味を抱くようになっていった。

2回生の冬くらいだったと思う。僕は一気に方向転換をして、中学高校教諭の免許を取るほうに舵を切った。自分がいた学部で中学高校教諭の免許を取りやすそうな「社会」に目を向けた。

高校の時の日本史の先生が大好きだったこともあり、僕は社会の先生の免許を取るべく、3回生から一気に真面目に学校に通い出し(いや、実際は週3回くらししか行ってなかったはず)、卒業までに必要な科目の単位を取得し、自分が通った中学校への教育実習を経て、なんとか教員免許をGETできた。

最後に

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(卒業式での1枚。同じ学部の仲良しメンバーで)

大学3回くらいから皆が始める就職活動に意味を見い出せず、僕はせっかくの神戸大学卒業という看板を捨てて、自分の人生を模索していくことになる。

就職活動をしない選択をした僕にオカンはこう言った。

「頼むから教員免許を取ることと、卒業だけはしてくれ」

と。

その教えはなんとか守ることが出来てホッとしている。

バンド活動も塾講師もせずに、神戸に下宿をして軽音サークルに入った大学生活は、時を戻すことが出来るのであれば経験してみたいなと思ったことはある。

でも後悔は全くしていない。
2人の親友と出会えた最高の4年間だから。

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