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ラーメン・エッセイの試み(正式タイトル未定)

序章:味噌ラーメンとともに育った青春の日々

突然ですが、ラーメン・エッセイはじめます。音楽の話はちょっとお休み(もともとしてませんがw。
タイトルは、ふさわしいものが思いついたら差し替えますが、とりあえずは暫定版です。

東京・池袋の名店「はせ川」

かつて、東京・池袋に、ラーメン「はせ川」という名店がありました。

東京・池袋駅東口、昔は三越池袋店だった建物の南側に面した通りの角に、その店はひっそりとたたずんでいました。正確には「はせ川 らぁめん」。ずっと「はせ川」とだけ呼んできたので、ここでもそれで通します。子どもの頃から通い倒していた池袋のビックカメラ本店(現在のアウトレット館)に行く際、ひとの多い表通りを行くよりは、この狭い裏道を抜けていくほうが、なんとなく冒険気分で愉しかったのです。

カウンターと小さなテーブルがいくつか並んだだけのわりと狭い店。その店になぜ入ろうと思ったのか、最初に入ったのがいつだったのか、そんな記憶はとうに忘却の彼方ですが、遅くとも高校生になったばかりの春あたりであっただろうとは思います。ということは1989年。永遠に続くかとおもわれた昭和がついにその終焉をむかえ、平成という真新しい元号に変わってまもなくのことでしょう。もしかしたら、中学生のときに親に連れられて、ということもあったかもしれませんが、やはり忘却の彼方。

今回、ラーメンについての想い出をつれづれに書き残しておきたい、とおもい、いろいろ案は浮かびました。さまざまな名店が脳裏に浮かんでは消えましたが、そんなエッセイを書きはじめるにあたって、最初に書きたいと思える店は、この「はせ川」以外には考えられなかった。なぜなら、私にとって、この「はせ川」の味噌ラーメンこそが、世の中において初めて、輝いて見えるほどにまぶしく、そして心の底からおいしいと思った外食の原点であり、非日常への誘いであったからです。

(今後、このシリーズが続くとしたら、多少は写真等も入ると思います。でも、さすがに昔のことすぎて、はせ川の写真がない…。そもそもスマホ、いや、ガラケーで写真を撮る、という文化がなかったですね。今回は文字だけの素っ気ない見栄え、何卒御容赦ください。)

味噌ラーメン、味の記憶は青春の記憶

「はせ川」、決して見栄えのよい店ではありません。それなりに有名店ではあったので、折々に行列はできていましたが、昼夜のピークをはずした、高校生が行くような中途半端な時間帯なら、並ばずにすぐ入れることが多かった気がします。知らなかったら、自分から積極的に入るようなことはおそらくなかったであろう店構えです。店の外には、「西山製麺」と書かれた木箱が乱雑に積まれており、そんな風景が子供心に場末感を感じさせたのかもしれません。踏み込んでよいのかどうかわからない、オトナの世界への結界のような。まあそれは大げさとしても、ああ、この店から麺を取り寄せているのか、と子供心に思った程度でしたが、この「西山製麺」こそが店のウリなのだ、ということを知ったのは、ラーメン関連の本を読み漁るようになる、もう少し後のことです。

いや、そもそも、このお店が、東京における北海道ラーメン、札幌ラーメンの草分け的存在である、ということを、高校生のときの自分はどこまで意識していたでしょう。それが、どこよりもおいしい特別なラーメンであることは認識していましたが、ラーメン史において特別な意味を持つ店である、という意識は限りなく希薄であったようにおもいます。そりゃそうだ、何も知らない高校生だもの。

店に入り、大抵はひとりきりだったので、カウンターに座ります。このお店は当時としては(いまもか)かなり珍しいカレーラーメンもお薦めだったのですが、自分は頑なまでに味噌ラーメン一択。バターやコーンも追加してみましたが、結局なにも入れないそのままがおいしい、という結論に至っていたと記憶しています。

そもそも、ラーメンの具となる野菜や挽肉を炒めた後で、そこにスープを足してアツアツの汁を提供する北海道スタイルが東京に普及したのも、おそらくは「はせ川」がそのきっかけを作ったはずです。カウンターに座ったときは、いつもその様子を愉しく眺めていましたが、それが札幌ラーメン独自の調理法だと知ったのは、もう少し後の時代だったような気がします。
寸胴鍋に、西山製麺の木箱から、味噌スープによく馴染む太麺が放り込まれます。多少、茹で上がるまでに時間がかかるので、そのスープを作り始めるタイミングは、茹で上がる時間に合わせていたはず。「すみれ」のように、溶けたラードでスープに蓋をしてアツアツ状態をキープする、というほどではなかったですが、やはりそれなりに油は多かった。食べ応えのある、味付け濃いめのメンマが数本。そして、現在主流のとろとろチャーシューに慣れたひとたちは驚くであろう、少し小ぶりで、硬めで、脂肪分はほぼ皆無のチャーシューが二きれほど。現代においてはストイックさすら感じさせる、麺と、スープの旨みだけを最大限に味わえるような味噌ラーメンでした。

味噌スープ、いまからおもえば、もちろん合わせ味噌だったでしょうが、赤味噌風味がかなり勝っていた、独特の味付けだったような気がします。味の記憶を引っ張り出すのは難しいことですが、パンチのある味噌の香りが、麺を啜っても、もちろんスープを口に含んでも、どこか舌の上、鼻腔に残る雰囲気、といえば通じるでしょうか。初めからスープに溶け込んでいるであろうショウガの辛味が、味噌の味を引き立てます。

この味噌ラーメンは、凍えるような真冬はもちろん、汗をかかねば食べられないような真夏だって、どんなときもおいしかった。このラーメンを食べると、本当に心身が健康になる気がして、一週間に一度は必ず食べに行くくらいだった。ちょっと風邪気味のときは、卓上のすりおろしニンニクを少し多めに投入。口はそうとう臭くなるし、家族は辟易していたでしょうが、これを食べた翌日は、なんとなく感じていた風邪の予感は不思議と消え去っていたのでした。喘息持ちですぐに風邪をひく虚弱体質の自分を励まし、力づけ、生きる力を与えてくれるラーメンだったのです。

そして、ある日、その店は姿を消した

やがて、自分は大学生になり、世の中に溢れかえる数多いラーメンを食べ歩くことに喜びを見出すようになり、自然と「はせ川」に通う頻度も間遠となっていきました。結婚後は生活の拠点を多摩地域に移したことも相まって、池袋を通ること自体が少なくなります。友人から、「はせ川」が改修工事で新しい店舗になった、という話を聞いたときも、なんとなく、わざわざ食べに行こうとは思わなかった。今となっては痛恨事ですが、やはり、なんとなく、いつでも食べられるだろう、という甘えのようなものがあったのかもしれません。

やがて、「はせ川」は2006年7月にひっそりと閉店し、御主人は北海道に戻られたとか。その瞬間を見届けることもなく、自分の味覚を決定づけたあの味噌ラーメンは、私の前から永遠に姿を消してしまいました。以来、自分のラーメンをめぐる逍遙は、どこかであの味噌ラーメンをもう一度食べたい、という想いと不可分に結びついています。もちろん、札幌ラーメンの名店たる「すみれ」だって、あるいは旭川ラーメンの「山頭火」だっておいしい。一時期は「味噌一」もお気に入りでした。コロナ禍以降は、お取り寄せで「大島ラーメン」を食べるのがお気に入り。新しいお店も、自分の普段の行動範囲内ならば、可能な限り顔を出すようにはしています。自分のせり出す下腹と相談しながらですが(苦笑。

この20年近く、あちこちで味噌ラーメンを食べ続けてきましたが、あの「はせ川」の味を彷彿とさせるラーメンにはついぞめぐり会えていません。可能ならば、もう一度だけ、あの味噌ラーメンを食べたい、とは思います。でも、おそらくは、ラーメンはその店がなくなればおしまい、なのです。ラーメンとの出会いは一期一会。そのことは、理性ではわかっているつもりなのです。

それでも、自分の原点とも言える「はせ川」の記憶を忘れることは決してありませんし、どうしてもあの味とどこかで巡り会いたい、と思ってしまう。なぜ自分がラーメンにこだわるようになったのか、そしていまなお、ラーメンにこだわってしまうのか、そのおおもとの理由は「はせ川」にあるのです。これから綴るであろう、ラーメンにまつわるエッセイも、それが味噌ラーメンでなかったとしても、どこかでこの話とつながっているのかな、と感じながらお読み頂ければ嬉しいです。50を過ぎたおっさんになっても、いや、ラーメンを食べられなくなるその日まで、ラーメン屋には足を運び続けます。若き日のドキドキを感じるために、あの日感じた、輝かしいまでの非日常を、いつかもう一度体験するために。


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