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日曜日の駄弁12週目

最近やっとインスタ再開しました。

https://www.instagram.com/librairie_sunshindo/

再開なんていっても、もともともべつにそんなにやってなかったんだけど。

再開最初の投稿が「田中久文『九鬼周造』(講談社学術文庫)」でした。

たんたんと書影をアップするばかりのインスタなんですけどね。

読んだ本だけアップするという方針だと、毎日アップとか絶対無理なので、身の回りにある本、比較的最近手に入れた本を、読んだか読んでないか関係なしにアップしていこうかなと思ってます。

古本屋として仕入れで買った本をアップするというより、古本屋の中の人がただ読みたくて買った本をアップしている、という感じになると思います。

スンシン堂の中の人って、こういう本を読む人なんだなーと思っていただけたらよきかなと思います。

『九鬼周造』は、読みました。
そして、おもいのほか、面白かったです。

「意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸かっている。実際的価値の有無多少は何等の問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明かに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。」
――『「いき」の構造』

インスタでも上の部分を引用して載せていたんですけど、ここだけぱっと読まされても、なにを言っているんだかよく分からないと思うんですよね。

「意味体験」って、つまり「僕が感じていること」です。

「概念的自覚」とか「概念的認識」というのは、その僕が感じていることを「他人に通じるような言葉にする」ということです。

「意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを意識しつつ」というのは、つまり「僕が感じていることをひとに通じるような言葉にすることはほとんど不可能なんじゃないか」って思いつつ、ということです。

「しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡する」というのは、だから、ほとんど不可能なんじゃないかと思いつつも、頑張ってひとに通じるような言葉にしようとする、ということですね。

それが哲学者の存在の意義であって、学問の意義だと言っている。

と、僕は理解しているんですけど、間違っていたらすみません。

で、僕は哲学者でもなければ学問をやっているわけでもないんですけど、自分が感じているもろもろのことを、ひとに通じるような言葉にしたいと思ってはいるんです。

そしてそのことの難しさを常々感じているので、九鬼周造でさえ! それが不可能なくらい困難なことで、でも頑張るぞって言っておられるので、「勇気を与えられるなぁ」というようなわけです。

ホンマかいな。

他にもいろいろ面白いところがあったので、これについてまた久しぶりに「もっと他愛ないハナシ」でも書けたらいいなと思います。

「他愛ないハナシ」でやろうとしていることって、ずっとこのこと(「意味体験を概念的自覚に導く」)なんです。

応答がないので寂しいですけど、ゆるゆる続けたいなぁ。

「寂しい」は、九鬼周造にとってもキーワードでした。

ではまた来週!

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