「私って何?」ってどういう問い「ではない」のか―日曜日のおしゃべり17週目

この二週くらいにわたって考えているところの「私って何?」という問いが、どういう問い「ではない」のかっていうことについて、ちょっと書いておかなきゃいけないなって思いました。

あらかじめ誤解を解いておいた方がいいなと。

僕がこのところぼんやり考え続けている「私って何?」っていうのは、僕――そう問うている当人――の「アイデンティティの探求」みたいなものではないんです。

思春期とか青年期とかには、「私って何?」っていうのは、しばしば「アイデンティティの探求」としての問いとして浮かんでくることが、あるかなって思うんです。僕にもそういう時期は、あったと思う。

アイデンティティの探求としての「私って何?」っていう問いって、大人になったら自然と解消してしまったりするようなものでしかなかったりしませんかね?

こういう「私って何?」っていう問いって、つまり「私って何者なのか?」という問いであって、その私が何者かになれてしまったら、自然と解消してしまう、というようなものであったりするんだと思うんです。

たとえば、しっかりした社会人(お金を稼げる人)になって、恋人ができたり配偶者ができたりして、子供なんかもできたりなんかするなりして、この社会の中で自分の居場所がそれなりに確保できたなぁ、と感じられるようになると、青年期の「私って何(者)?」っていう問いって、解消されちゃう。それで、いつの間にか問われなくなっちゃう。

で、僕が問うところの「私って何?」っていうのは、いま言ったのとは別の問いなんです。

じゃあ、そういうのではない「私って何?」っていうのは、いったいどういう問いなのか、という話なんですが。

ゴール地点を先に言っておきます。

「私って何?」という問い進め方をするんですけど、到達したいところは「私ではない人(たち)が、どういう存在であるのか」っていうところです。

短く言い切ってしまうと「他者とは何か」だし、そもそも「人間とは何か」です。

それで、僕は独我論者ではないので、「私とは何か」ということを問い進めて、「私っておおよそ○○みたいな存在だなぁ」という感触を持てるようになったら、僕はそれをそのまま「他の人もおおよそ○○みたいな存在なんだろうなぁ」と考えることになるだろう、って思ってるんです。

僕は、「私って何?」を考えて、その結論をそのまま横滑りさせて、「人間って何?」の答えにまで至ろうって思ってるわけなんです。

そういう狙いを持って「私とは何か」を考えるのって、けっこう難しいんです。

僕に固有の要素っていうのは、一切「私とは何か」の答えに反映されていたら、ダメなんです。このことを徹底すると、人の属性に関わるようなこと(男であるとか、日本人であるとか、何歳くらいであるとか、こんなことができますとか、社会的な地位とか)とは、一切関係のないところで、「私とは何か」を考えないといけないんです。

だから、言葉としては「私とは何か」なんだけど、実際に考える内容としては、私だろうがあなただろうが誰であろうが、人間であれば誰だって「そういう存在であるはずだ」というところのことを、考えようとしているっていう話なんです。

というわけで、僕が「私って何?」とか言いながら、何をしようとしているか、っていうのはある程度通じたかなって思うんですけど、それでもまだ伝わらないことがあると思うんです。

それは、「なぜ?」そういうことを考えようと思うのか、っていうこと。動機ですよね。

他にやって楽しいことはいくらでもあるだろうに、なんでそんなことを考えることに心血を注ぐんですか? っていうことは、なかなか分かってもらえないところかなと思うんですよね。

心血注いでるは言い過ぎかな?

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