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モネ展と福田平八郎展―日曜日のおしゃべり22週目

モネ展と福田平八郎展に行って来ました。

モネ展を見ているときに思ったのは、「絵画っていいな」っていうことでした。

なにと比べて「いいな」かというと、文学と比べてなんですけど。

絵画の作品って、モノそのもので、モネの絵画なんかだと、150年くらい前のモノがそのまま、「いま目の前にある」わけじゃないですか。

そのモノって、モネが触っていたまさにそのソレなわけで、その即物性っていうか、なんていうのか、実在物のオーラみたいなものを、感じられるっていうのが、いいなぁ、と。

文学って、文字列が複製されているだけなので、物質としては、ほとんどまったくありがたみは感じられない。

本という物質として、ソレをありがたがる、という趣味(初版本をありがたがるというような)があるのかもしれないけれど、そのありがたさであっても、絵画ほどのことはないかなって思う。

そもそも小説とか詩を味わうっていうのは、物質としての本をありがたがる、っていうこととあんまり関係があるとも思えないし。

でも、絵画の場合は、それとはまったく反対に、絵画作品そのものが目の前にあるということが、本質的に重要なことのように思えました。

今回モネを見ていて、それをすごく思ったんです。

絵画って、それこそ画集とかいう形で、本に収まっていたりして、それを眺めることができて、それはそれで一つの絵画を鑑賞するという経験ではあると思うんですけど、どんなによくできた画集で見たとしても、美術館で実物を見るという経験と置き換えられないものがあるなぁ、ということを、今回のモネ展では、すごく思いました。

モネはとくに、印刷と実物の落差が大きい、というタイプの絵なんだと思います。

モネ展と同じ場所でやっていたので、同じ日に続けて福田平八郎展(「没後50年 福田平八郎」)も見ました。

しばらく見続けていて、ある瞬間に、「これは尋常じゃない!」って思いました。

ある一つの絵を見てそう思ったんじゃなくて、ある程度の分量の絵を見続けて、それらに共通する要素に気がついたときに、そう思ったんでした。

どの絵も、構図の決まり具合がすごすぎる、ってことに気がついたんです。

何をどう描いても構図がばっちり決まってしまうっていうのは、いったいどういうことなんだろう? って思いました。

もちろん、仕上がっている絵の構図がしっかりしているっていうのは、当然そうなるように計算して描くだろうから、まだ理解できるというか、まあそういうものだろうなとも思えるんですけど。

写生帳も展示されてたんですけど、写生って、見た物を写実的に描く、ちょっとした練習、習作みたいなものじゃないかと思うんですけど、その写生でさえ、そのページの中にその絵が収まっている具合が、ちょっと考えられないくらい構図がばっちり決まっていたりするんです。

もちろん、そういうページを選んで展示していたのであって、そういうわけでもないページだって、いくらでもあるのかもしれないんですけど。

モネが色の天才だとしたら、福田平八郎は構図の天才なんじゃないか、なんて思いながら見てました。

最初の方に、「文学に比べて絵画っていいな」っていう風に言ってたんですけど、実は同じ理由を反転したら、文学の方が絵画よりいいって考えられないこともないんですよね。

絵画は複製を見る経験って、現物を見る経験よりどうしたって劣るわけですけど、文学は複製で読むことが現物を読むことと何ら遜色がないんだっていう風にもいえるわけで。

っていうか、文学の現物って何なんでしょうね。

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