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戦時とその前後ー亡き母のエッセイ『戦争、そして今』 より

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マガジン【亡き母のエッセイ『戦争、そして今』】のサブマガジンとして、とくに戦時そしてその前後を記録した記事をあつめました。戦前の日々を綴ったエッセイも含みます。
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記事一覧

「母と歩んだ日々」 母のエッセイ 『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生…

母と歩んだ日々  敗戦後、母とたびたび食料の買出しに行った。そのころ、配給制度などあって…

「蝉時雨」 母のエッセイ 『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』…

蝉時雨 「カナカナカナ、カナカナカナ」  我が家の二階、北向きの六畳間が、私の部屋である…

「一本の道」 母のエッセイ 『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬい…

一本の道  今でも私の記憶の中にはっきりと残っている一本の白い「道」。それは一面焼け野原…

「挽 歌」 母のエッセイ 『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』…

 私には三人兄がいた。長兄の名は章夫。弟妹たちはみな「あきおにいちゃん」と呼んで慕ってい…

「父」 母のエッセイ 『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』より…

 父は、母と結婚後、男ばかり三人立て続けに生まれ、四人目にようやく女の子を授かったのだが…

「お風呂の思い出」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生き…

 いまどき、風呂のない家などないだろう。でも昔はないのが当たり前だった。街を歩けば銭湯の…

「天神様」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』補遺作品        

 子供の頃、近くに天神様のお社があった。実家から三、四分の所、電車通りに面して其のお社は立っていた。境内はさして広くもないのだが、大きな樹木が何本もこんもりと生い茂り、夏などひんやりとして心地よく、子供たちの格好の遊び場になっていた。このお社、いつ頃からこの場所に鎮座していたのだろう。鳥居や周囲の石垣は苔むしていてかなり古びた様子だった。  戦前の話だが、たしか五、六歳の頃の事だったと思う。ある暑い夏の日の昼下がり、幼友達と社殿の前の狛犬の背に跨って遊んでいたお転婆娘の私は

「熱中症」 母のエッセイ『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』…

 まだ六、七歳の頃の思い出である。昔の記憶がどれもこれも日一日と薄らいでいる今日この頃だ…

「父と戦争」 母のエッセイ『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた…

 私は一九二六年(大正一五年)、東京の赤坂一ツ木通りで生まれた。今は亡き父母から聞いたこ…

「再会」 母のエッセイ『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』よ…

  最近、私はある一つの再会を果たした。と言っても人との再会ではなく、五十年以上も前に私…

「追想」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』よ…

 母が亡くなったのは二十七年まえ、あの広島原爆忌に当る八月六日だった。窓外の蝉時雨が頻り…

「学校疎開」 母のエッセイ『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた…

 戦争末期、私の通っていた東京女子医専は東京から山梨へ学校疎開をしていた。米軍による空爆…

「疎開当日  あの日々」(「父と戦争」初稿) 母のエッセイ 『戦争、そして今――あ…

 首都東京は連日の米軍による空爆で殆ど壊滅状態だった。私は当時女学校を卒業して医学系の専…

「父」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』補遺作品(口語体version)

 父は、母と結婚後、男ばかり3人立て続けに生まれ、四人目にようやく女の子を授かったのですが、そのときの喜びようといったら無かったと、母が後々言っていました。その女の子が私だったのです。ですから,私は父から貰った愛情の思い出は、本当に数え切れないほどあって、思い出すと胸が熱くなるほどです。遠い昔のことなのですが、今でも父の優しい表情や声を昨日のことのように思い出します。    私の生家は東京中野の静かな住宅街にありましたが、家の前の通りは、大人になってから行ってみると、驚くほど

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