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イスラエルですごした10か月 キブツ篇 はじまり

出発前夜

陽一郎おじさんが、イスラエル行きの話しを、母のところに持ってきたのは、年末もいよいよ差し迫った時だった。

その頃、僕は日本の古武道に強い興味を抱いていて、年が明けたら鹿児島に移って彼の地の、示現流を学ぶ予定だった。
叔父がイスラエル行きを進めてきた理由は、彼の娘、僕よりかなり年上のいとこが、大学在学中にイスラエルのキブツという共同体で一月ほど生活した後、人生に対しての視点が以前とは変わったらしかったというもの。

まだ20歳なんだから、若くて思考が柔軟なうちに、海外へ行っていろんな経験をした方がいいよ。
その後の人生が違って見えるからと叔父は言った。

学生闘争に関わっていた叔父は、その頃のソビエトに行って、現地の様子を見てきたかったらしいが、僕の祖父にあたる、叔父の父親がせっかく費用を工面してやると言ってきたのに、左翼、右翼の違いからその勧めを断ったことを、後悔しているとのことだった。

若かったころの自分を、当時の僕に重ねたのかもしれなかったが、あまり興味をひかれる話ではなかった。
僕がイスラエルに関して知っていたことは、軍隊が強い、キリストが住んでいたらしい程度だった。そういえば一番好きな戦車はイスラエル製だった。

また当時、自分と同じ年代の成人男子に人気のあったハードボイルド系ジャーナリスト、落合信彦氏の著書から、しょっちゅう戦争をしている国のイメージもあった。
なんでそんな所に自分が行くのかが良くわからなかった。

試しにひと月だけ行ってくればいいんじゃないかな。
それで嫌だったら、帰国してから鹿児島に行けばいいじゃないか?
普段は優しい口調で話す叔父にしては、珍しく僕を説得するようにイスラエル行きをすすめてきた。

キブツ

キブツとは何かを、僕は知らなかった。
初めて耳にした言葉だった。
グーグルどころか、インターネットすら無い時代で、キブツに関しての情報も少なかった。
いろいろ調べてみると、簡単に言えば自給自足を目指して、共同生活しているグループといったところ。
個人の持ち物は一切なく、全てを共有して生活しているらしい。

そこでは、海外からのボランティアを受け付けていて、ボランティアは労働力を提供する代わりに、キブツでの生活に必要な衣食住を受け取ることができるらしい。
なんだか宗教団体みたいなひびきもあった

その当時存在したイスラエルー日本友好協会で運営を担当していた女性が、叔父の知人だった。
出版業界にいて、某週刊誌のデスク勤務だった叔父は、当時は多方面の取材を担当しており、彼女はそこからのつながりだった。
イスラエル大使館で働いていたその女性は、現地の情報に精通していて、毎年その友好会からキブツへのボランティア希望者を募り、現地へ送っているという。
叔父の強い勧めに負けて、彼が教えてくれたイスラエルー日本友好協会に連絡を入れた。

電話にでた担当者が、ボランティア希望者のオリエンテーションが一月半ばにあるので、イスラエルに行きたい理由、イスラエルに関して知っていることなどを、短いエッセイにして当日持ってくるようにと教えてくれた。
特に希望してこのオリエンテーションに参加するわけでもない自分は、何を書けばいいのだろうと迷ったが、落合信彦の著書からイスラエルに関しての情報をもとに適当にまとめてレポートを作成した。

オリエンテーション

オリエンテーションがあったのは、都内のイスラエル大使館からすぐに近くにある会館内だった。
集まっていたのは約30人ほどの自分とほぼ同じ世代の男女だった。
僕との年齢差はさほどなかったが、彼らの真剣なイスラエル行きの動機を聞いているうちに、本当にこんないい加減な形でキブツに行っていいのか?と迷い始めた。

ヘブライ語をマスターしたい、そういった彼は自分よりも二つ下の大学生、ほかにも同じ大学からすでに英語、フランス語を話せて、イスラエル建国の歴史に興味があるといった人物。
自分のように勤め人であっても、熱心なクリスチャンで、キリストの生誕の地に行くのが夢だといった二十代後半の女性。
とにかくみんな動機がまともすぎる。

ついに自分の番となった。
心のうちでは、叔父さんががどうしても行ってきなさいと言うのでと思いつつ、口ではレポートに書いた内容と同じようなことを言って、なんとかその場をやり過ごした。
全員がそれぞれのキブツ行きの動機を発表した後は、今年度のボランティアを引率することになる、二人のリーダ的人物によるキブツの体験談をスライドを交えつつ聞き、最後に質問の時間となった。

聞いておかなければいけないことが僕にはあった。
”日本刀を持って行っても大丈夫ですか?”
自分の質問だった。
その場の全員が一瞬沈黙した様な気がした。
視線が一気に自分に集まる。

僕にとっては大事なことだった。
戸山流抜刀道を錬磨していた自分は、たった一年足らずにもかかわらず、剣士のようなつもりでいたのだ。
日本刀はまずいですねとの答え。
やっぱりだめか。
木刀なら問題ないだろということだった。
そういった経過があり僕は、剣士塚原卜伝が使っていたという軽いが粘りがあって折れにくい、びわの木で出来た木刀を、持っていくこととなった。

抜刀道の稽古着の袴はバックパックには収まりにくかったので、空手着の下だけをもっていくことにした。

40時間プラスの道のり

その日、参加が決まった全員が成田に集まった。行先はギリシャ、アテネ。
その当時はイスラエルへの直行便はなかった。
ギリシャまで行きエルアル(イスラエルの航空会社)に乗り換えイスラエルへ、しかしギリシャまでの道のりが信じられないほど長かった。
格安パキスタン航空ということで、所々で数時間単位で止まり、乗客の乗り換えがある。しかも新たに乗り込んできた乗客のためだろうが、そのたびに食事がでるのだ。
それと、イスラム教のお祈りの時間まで。
1日5回もあるお祈りの時間にやはり当たってしまった。
フライトアテンダントが頭にイスラム教の被り物をして、窓のカーテンを全部しめてしまった。
スピーカーからは初めて聞くコーランが流れ出した。
彼女達の制服と被り物はとてもミスマッチだったが、皆真剣に何かを祈っていた。
10分弱で終わると何事もなかったように、自分達”異教徒”に朝食を配り始めた。
そういった経過もあって、アテネに着いた時には全員がかなり参っていた。

アテネ


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アテネでは一泊して次の日にすぐイスラエルへ向かう予定だった。
アテネ着は早朝だったので、その日1日はギリシャを観光することが出来た。
アテネにはそこら中に遺跡があり、普段の生活に溶け込んでそこに住む人々の日常となっているが、神殿の古めかしさには驚いた。
日中はギリシャ在住のある日本人がガイドをしてくれたが、夜は自由行動となった。

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一度ここに来たことがあるといった、真奈美さんという女性の先導で他のボランティア何人かと一緒に、ギリシャではありふれた地元の人間がいる様な食堂で夕食となった。
オリエンテーションではすでに見知っていた何人かとまともに話したのは、それが最初だった。
自分と同様、みんな楽しそうだ。
やはり、何か新しいことが次の日から始まるということで気分が高揚していたのだろう。


宿に帰ってもなかなか、寝付けない。
上智大学でフランス語専攻の、俊一の提案で宿から比較的近いところにある、あまり観光客が来ないという神殿に行ってみようということになった。
彼は以前ここに来たことがある友人から、その神殿のことを聞いたらしかった。
俊一、僕、東京下町出身のノボルの三人。
ホテルをでて、ちょっとした丘を登った先にその神殿はあった。

確かに観光地にしては、草は生え放題で、あまり手入れされていないというのが分かる。しかしここはアテネ。
歴史の古さは保証ずみ。
こんな所でも遺跡に刻まれた悠久の時の流れは、神殿を照らし出すライトの光でわかる。
丘の上からは、アテネ市街地の夜景がとても鮮明にみえた。
宿に帰り、やっとの眠気に誘われたのは、深夜をすぎてしばらくしてからだった。
明日はイスラエルだ。

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