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茶摘みをしながら、餅ばあちゃんの教えを実践

先日『餅ばあちゃんの物語』を見てから、餅ばあちゃんをイメージしながら行動したりしています。

先週末、お茶の葉を摘みました。隣家にズラッとお茶の木が植わっており、隣家のおじさんに「いつでも摘んでいいよ!」と言われています。

祖母に言わせると、昔は1年かけて家で飲むお茶を摘んでいたそうですが、今は祖母も面倒になって買いますし、季節の行事のような、年に一度、自家製の新茶を味わえればいい、というくらいです。

私はお茶づくりがまだまだ上手でもないので試行錯誤しながら、今年は、本当に柔らかいところだけを摘んでみよう!とやってはみるのですが、正直ひとつひとつ、茶葉を摘むのはなかなか面倒な作業でもあります。

そこでふと、餅ばあちゃんを思い出すのです。

これを「作業」と見なして、どれだけ短時間で茶葉が摘めるのか、などとするのか、それとも、きっと餅ばあちゃんであれば、ひとつひとつの茶葉を摘むことを、一回一回茶葉と向き合い、自然と向き合い、自分と向き合うことにするのではないのかなぁ〜と。

餅ばあちゃんのETV特集も観ました。その中で、山に入って(94歳なのに、どんどん急斜面を登ったり、本当にすごい!)きのこを見つけて採っているシーンがありました。嬉しそうに笑顔を弾けさせて、まさにキャッキャしていたのですが、その様子を見て、テレビの方が「嬉しそうですね」と声をかけました。

餅ばあちゃんは「いっぱい採れることが嬉しいんじゃないんだよ。こうやって見つけると、あ〜今年もここで待ってくれていたんだな、と思うんだよ。それが嬉しいんだよ。」とおっしゃっていました。

なるほどなぁ〜と思いました。確かに、言語化できてはいなかったけれど、そういう気持ちは少なからずあるかもしれない、とも思いました。

特に春が顕著ですが、まだまだ寒いのに、もうフキノトウが出てる!と採ったり、寒さが少し和らいだ頃に、タラの芽はまだかなぁと待ち望んだり、たけのこやウドを採ってみたり。たけのこは木の芽和えが一番好きです。私はぼんやりしているので、木の芽も柔らかいときが一瞬に感じます。

山菜は無料だから、勝手に生えてくれるから嬉しい、そういう見方もありますが、毎年、あぁこの季節が来た、と恵みに出会えることが一番嬉しいのかもしれません。もちろん、美味しいのも嬉しいです!笑

お茶も、効率を考えると、買ったほうが便利になってしまっていますが、買ったお茶では味わえない味わいが、なぜだか自家製のお茶にあるのです。

今年は丁寧に柔らかい茶葉のみ摘んだからか、いつもより柔らかい味わいになって、とても好みでした。

おそらく餅ばあちゃんの心がけも付け加えられているかもしれません。

(文責:森本)

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