供養に行く日

私は、夏が訪れる頃になると足を運ぶ場所がある。
岡山市北区にあるお寺である。


水子供養で有名でもあり、私は、供養の為にここに必ずと言っていいほど夏になると足を運ぶ。
私は、障がい者にならなかったら、毒親持ちじゃなかったら子どもを持てたのかと思った事もある。
それが例え嘘だとか、言われても、証人は幾らでもいる。


飛び降りの件だってそうである。
私は、先日主治医から甲状腺の関係で内科を転院するので、診療情報提供書を書いてもらった。
コピーをいただき、それを証拠としてネットに載せようか、飛び降りを嘘だと言っている人に見せようか、と言った。


主治医は、麗慈さんがもっと傷つくことになるからやめておきなさい、と言った。
私は納得した。


私は人が信じられないような人生を送ってると思う。
飛び降りた時、精神的にショックが大きく、記憶が閉じ込められてて記憶が曖昧だった、と言うのが結論です。


私は、17年経ってあの時何が起きたか今更人からの話で知った。
私は、今、生き直しをしている。
学び直したり。
私は罪が深い、と思う。
全てを壊して生きてきた、そうするしか生きてくことが出来なかった。


最近は、ギターを弾いたり、色々と趣味に没頭しています。
学ぶ事もしています。
私は、今、生きている事はどう言う事なのかわかりました。
寿命迄生きるんだよ。


私は、人に13階から飛び降りて亡くなった友人の話をした。
「そいつはバカだな」
吐き捨てるようにその人は言った。


私もバカだと言われた気がした。
数年後、その人の友人は交通事故で亡くなった。
信号無視だった、私は素直に哀しみに暮れた。


私は哀しむ資格なんてないと言われた。
その人ではなく、外野に。
私はその人の為に曲を作った。


私は、生きていると色々あるな、と思った。
私は寿命迄生きる。


その人の代わり、ではなく、その人が見れなかった、失った人が見れなかった景色を見る為に生きる。

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