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虎よ、生成流転せよ――タイガー立石を称える

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コロナ禍ということもあって、ほぼ2年ぶりに出かけた、じつに見ごたえのある展覧会だった。

大・タイガー立石展 POP-ARTの魔術師@千葉市美術館
2021年4月10日[土] – 7月4日[日]

やはりちゃんと構成された美術展は良い。1冊の本をしっかり読み上げたような充実感がある。資料価値を鑑み、珍しくカタログも買った。絵葉書も数枚。でも大作が多く、実物にはとてもかなわない。小品のたぐいも隅々まで考えて描き込まれ、現物を仔細に眺める喜びがある。

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タイガー立石は天才だった。てっきり単なる漫画家だと思い込んでいた。ひところスラップスティックな四コマ漫画風の作品をよく目にした。

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しばらく名前を聞かないと思っていたら、とうに死んでいた。1998年、享年56歳。あまりに早すぎる死だ。21世紀まで生きていれば、世界的に名前を轟かせていただろう。仕事に忙殺されるのを嫌い、ブレイクしそうになると逃げ出してしまう。

名前を聞かなくなったのも道理で、漫画家として成功しそうになったのが嫌で、イタリアに逃げた。向こうでもっぱらデザインの仕事をしていた。絵もかなり描いたようだが、散逸して見つからない。とはいえ本人の残したノートがじつに克明で几帳面だし、基本的なモチーフを何度もくり返し取り上げる作家なので、作品の全容は今回の展覧会でほぼ概観できるだろう。

あえて美術業界の外で活動をつづけた。その芸術の意味を正確に理解し、その意義を正しく評価できる者が日本には誰もいなかった。イタリアでの評価はかなり高かったようだ。向こうに腰を据えれば、大家として名声を確立できたに違いない。

今の若いやつは知らないだろうけど、以前の日本社会におけるマンガ蔑視はひどかった。漫画家出身というだけで相手にされなくなる。タイガーのことを、まともに芸術として取り上げる評論家など1人もいなかった。もし敢えてそんなことをやれば、業界から追放されたことだろう。

ネットでマンガやアニメを初めて本格的な芸術として論じたのが誰か知ってるか?オレだ。むろん追放された。

おそらくは20世紀日本におけるポップアートの最高峰。横尾忠則などより、はるかに優れている。横尾は一時代前の人なので、日本サブカルチャーの真骨頂たるマンガやアニメを知らない。映画が絵のなかに入っていない。ポスターのように外から見ている。横尾の絵はどれも静止画なのだ。

タイガーはむしろ映画というか動画から出発している。動くものを捉えようとする。1枚の絵のなかに1本の、あるいは複数の動画が埋め込まれている。絵画としてはるかに高度だ。

比べると横尾に気の毒なのだが、タイガーはとても絵が上手い。比べものになどならない。福岡・田川の炭鉱の街出身で、家が貧しかった。カネがあれば芸大に行ったような才能の持ち主だ。ま、行かなくてよかった。マンガ家としてデビューし、後年までアルバイト代わりに描きつづけた。それがよかった。

あんなに絵が上手いのに、人間を描かない。人間の顔をろくに描かない。これもまた古い美術アカデミズムには受け入れられなかった理由だろう。この作家は恐らく《人間》などに興味がなかった。動くものにしか関心が向かなかった。動物、植物、機械、宇宙、ほとんど森羅万象を描く。動くものを描く。

なかでも執心するのが《さかな》である。川や海自体が絶え間なく動く。動くものの中で動くもの、それがさかなだ。魚とは動の象徴なのである。むろん虎こそがタイガーのトレードマークなのだが、ようは水の中の虎が魚である。

そんな動物たちはたんなる自然のなかのエコロジー的な生き物などではない。タイガーのイメージ世界ではそのどれもが機械化され、人工都市のなかで群れを作って活動している。自然に深く沈潜しながらも、絵葉書的な自然のイメージなどまるで信じていないのだ。

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かれは生成変化するイメージの運動にしか興味がない。その運動はいつも笑いに彩られている。タイガーのマンガがそうだったように、かれの絵もすべてがスラップスティックである。堅苦しい真面目さのかけらもない。

タイガーの絵はなぜ動くのか。スイカの中から虎が生まれ、それがぐるっと回ってスイカに戻る、メビウスの輪のイメージに彼は固執する。あるいは、クルマの車内から外を見ていると、風景がクルマの中に入ってくる。内と外がひっくり返る。そのたぐいの絵を膨大に描いている。

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外が内、内が外となる。自分が外に吸い出され、外なるものが侵入してくる。自分が他者となり、他者が自分になる。安定した視座などどこにもない。世界とはテレビのようにお茶の間から眺めるものではない。その運動にすでにして飲み込まれ、巻き込まれている。

その絶え間なく反転するイメージを捉えることに彼は執着している。まさにこの反転と変容から運動が生まれるのだ。世界とは絶えざる反転と変容、生成変化するイメージの世界である。それは静止画などではありえない。動画なのだ。私たちはそれを外から見るのではない。その内側を生きている。

タイガーの絵を見る者は、いつしか彼の世界の住人になっていることに気づく。見る者が見られる者となり、見られる者が見る者となる。視線が出たり入ったりする。そこでの視覚像とは、千変万化するイメージとは、すでに過ぎ去った運動の痕跡にすぎない。運動そのものはイメージではない。

最初期の大作に『共同社会』がある。後年それに触れたメモで「若い表現者たちにとっては、この時代の社会を把握し認識するための《世界模型》の獲得が危急の課題であった」と述べる。まさに彼は最初から世界模型を絵画というかたちで実現しようと試みていた。そして彼なりのやり方でそれをなし遂げた。

世界や歴史の本質にある運動をイメージを介して捉え、画布に定着させるのに成功している。それは動としての動である。世界は動き、歴史は動く。たえまなく動き、捉えがたいものの中に世界の真相が潜んでいる。

むろん自然の生き物ばかりが描かれるのではない。過去の芸術作品、写真や絵画に残された歴史上の偉人たち、有名人たち。名立たる建築や都市。人類がこれまで思い描き、形づくることのできた凡そあらゆるイメージが引照される。まさしくイメージの大河であり、奔流だ。

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ある意味でそれは引用としての絵画であり、まさにポップアートの本流とも言えるが、そうした引用の質とスケールにおいて、横尾忠則あたりとは比べものにならない。いや、比べても仕方ないけど。

イタリアでも大家になりかけたので、日本に帰ってきた。千葉の夷隅や養老渓谷のド田舎に引きこもり、ひたすら絵を描いていた。今回、千葉市美術館で展覧会が開かれたのも、その地縁によるらしい。この早い晩年の作品がどれも素晴らしい。あと10年生きていれば、どれだけ傑作を残したか判らない。

とりわけ92年の『水の巻』は大傑作である。鉛筆で細かく書き込まれた絵巻物だが、全長が9メートルに及ぶ。これを今回のために中川陽介が30分の動画にしている。会場でひと通り見ることができたが、まさに動画を前提にして描かれた下絵のような感を持つ。

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(このあとシーラカンスが出現するんだけど、撮り損ねた😭)

あと10年ほど長生きすれば、本人が色をつけて動画化するのも十分可能だったのではないか。鉛筆画でもこれほど凄いのに。じつに惜しい。アートとアニメの世界に交流がなかった。タコツボ社会日本の悲劇である。

最後に龍が待ち構えているところなど、明らかに横山大観『生々流転』のパロディだが、芸術として質的にも量的にもはるかにそれを凌ぐ。大観は昭和の御代まで生きたくせに、発想は旧弊にとどまった。世界がじつに狭い。日本画のことしか解らない。タイガーこそ21世紀の大観になり得た大器だった。

タイガー立石という芸名が良くなかったかも解らんね。どうしても「虎石」と言い違えてしまう。東スポの下郎の競馬記者の名が脳裏に浮かび、我ながら忌まわしい。

語るべきことは多いが、今回はこれぐらいにしておこう。――虎よ、生成流転せよ。

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