民意と政策

 今回は全世界の人間が悩むタイムリーなお題である。地球上の各エリアには、政府という力の再分配装置が設置されている。世界中を見渡せば、あるエリアに住む者の総意によって、具体的にある量の財をどこかに移転するかを決めている例が多数である。しかし、国という枠組みが人間の認知範囲(立場や境遇が違う者がどういった思想かを想像できるか否か)を超えてしまい、反映される民意と反映されない民意が互いに壁を挟みながら存在している状態が続いている。

 政府が用いる財が有限であることを前提とすれば、限られた財をどのように配分するかが問題となる。ここで、多数派に配分することが正義であると考えている統治者は、多数派をハッピーにするためには、少数派のある程度の犠牲はやむを得ないと考える(功利主義。先進国と発展途上国との間に発生している状態も似ている。)。この場合、少数派は、民意が政策に反映されていないと、不満を爆発させるが、少数派として権利を主張する際のマナーとしては、政策はランプの魔人によって万人の願い事が叶う装置ではなく、必ず犠牲者が出ることを心得る必要がある。多数派のマナーとしては、自分が政策を恩恵を受けたときに、犠牲になった方に思いを馳せることを忘れてはならない。

 他方で、少数派の不満を軽減するための「説明コスト」を負担できるかどうかが民主制を運営できるかどうかの鍵となっている。しかし、国という枠組みが広範すぎるため、十分な説明コストを負担する余裕がない。そこで、政策の意思決定者はメディアなどの広報媒体に依存することとなるが、これでも不十分であると考える方が多いであろう。

 では、どうすれば少数派に納得していただけるか。ここでは、ヒントとなる構造的な要因を2点あげる。一つは多数派と少数派がお互いに交わらないことである。例えば、最近、自民党に批判的な見解をお持ちの方は、自民党を支持している方と意見交換をしただろうか。自民党に批判的な方の感覚は、「自民党を支持する方の感覚がわからない!そんな人いるの!?」であろう。情報が氾濫している現代においても、思想が異なる者同士が対話をすることはない。更には、政府の意思決定者も多数派から選出された者であるため、少数派と交わったこともなく、想像が及ばないという事情がある。

 もう一つは、異なる正義間の理屈戦争を合理的に終結することができないということである。立場が異なる者同士論戦をしたとしても、物事を決断する際には、権限がある者の感覚に委ねられている。加えて、残念なことに、理屈が人に与える影響は、感情論や暴動と比べると小さくなってしまう。そのため、いくら少数派の納得感を得ようと「説明コスト」を理屈で負担しようとしても、政策の意思決定者(多数派)との間に心理的なハードルや使用している言語の言い回し等が異なるため、理屈戦争を終えることはできないのである。では、どうすれば良いかについてはまたの機会としたい。

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