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胎内回帰




 最近、神社に参拝する機会が増えた。福岡県は、新潟県、兵庫県に次いで全国で3番目に神社の数が多い県とのこと。確かに街中に、郊外に、至る所に鳥居を目にする。結界の奥に見える神域は今も尚、長い歴史が醸し出す濃密な神秘性を帯びており、その独特な美しさに思わず引き寄せられてしまう。先日は、梅雨の晴れ間の休日に福岡県南部にある山間の神社を訪れた。




 子ども時代を過ごした東京郊外の家の近くには稲荷神社があった。社殿の裏手に広がる薄暗くて怪しげな森は誰も寄り付かない禁足地。冒険心と好奇心旺盛のやんちゃ坊主にとっては格好の遊び場だった。

 大きな段ボール箱で囲んだ隠れ家を作り、森に降る雨を眺めて過ごしたり、樹の枝にロープをくくり付け、ターザンごっこをして崖から転げ落ちて血を流し、泣きながら家に帰ったり。幼い自分は、鎮守の森に懐の大きさと厳しさの両面を持つ親心のようなものを密かに感じていたのかもしれない。
そのような森が、神に祈りを捧げる特別な場所と知ったのは、それから随分後になってからのことだ。

 戦後まもなくGHQによる占領政策の一環として、全国にある神社は一時すべてが破壊の対象になったという。しかし政教分離を原則とする施策により、国が神社を管理する制度を廃止。神社は破壊を免れ、宗教法人として存続することになる。

 戦勝国は敗戦国の歴史や宗教を破壊し、戦勝国にとって都合のいい歴史や価値観に塗り替えることはこれまでの長い人類史でも度々繰り返されてきた。敗戦後の日本もその例外ではない。今日の日本社会の危機的な現状を見ても明らかだ。

 その中で古代から存続していた神社が破壊させずに残ったのは奇蹟だった。

 神社はその後、国からの支援が絶たれたことにより、表向きは御利益信仰が一般的な主流となった。しかし神社とは古来、神と繋がるための場であり、御利益や御加護はその結果として訪れるもの。今日でもそのことを実感できるのはまさに神の御加護としか言いようがない。





 神社の参道は「産道」とも言われる。神社がお宮と呼ばれるのも社殿が「子宮」を意味しているからだ。

 俗界から離れ、鳥居という結界をくぐり、神域の中に足を踏み入れ、細い参道を進んでいく。手水舎で心身を清め、柏手を打ち、神への感謝と祈りを捧げる。おみくじという神からのメッセージやお守りを受け取り、再び参道を通り、俗界へと戻る。

 こうした一連の所作は確かに胎内回帰と捉えることができる。母親の子宮は新しい命が天から降りてくる神聖な場所。神社へ参拝することもまた生まれ故郷へとたちかえり、素の自分を取り戻し、再び生まれ変わるプロセスとなる。



    胎内回帰とは、人体の原初的な姿である「胎児」への回帰願望を表す言葉だが、そこには自己の原点回帰という意味合いが多分に含まれている。

 ちなみに母親の胎内で過ごす十月十日の中で、胎児は魚から脊椎動物に至る進化のプロセスをすべて辿るという。成長の過程で頬にはエラが、指の間には水かきが、仙骨の先には尻尾が生まれる。これらは途中で消えていくが、誕生後もその痕跡が残っていることから、当然身体の潜在記憶の中に眠っているだろう。実際に水泳選手は水かきが発達し、仙骨の先にある尾骨は嬉しい時に誰もが左右にフリフリしたりもする。



 古代の人々は、万物に神が宿るとして八百万の神を信仰した。当然、母親の胎内にも神が宿ると信じていたはずだ。

    勾玉は考古学的にはまだ何も解明されていない謎多き遺物。しかしこの形は胎児にそっくりに見える。産道があって子宮があるなら、胎児があって然るべきだと思う。もしもそうだとしたなら、古代の人々にとって胎児の存在は相当重要なものと考えていたに違いない。


沖ノ島古代祭祀場からの出土した勾玉(国宝)
宗像大社 辺津宮 神宝館にて撮影




 胎内回帰という概念を、体感的に理解する機会を与えてくれたのはヒーリングワークだった。かつて生業としていたボディワークでは、施術中に胎内回帰と思われる現象を多くのクライエントの中に見てきた。

 セッションの最初にクライエントの足先に触れると、全身のエネルギー状態を掴むことができる。ここから両足首を僅かに持ち上げると、クライエントの足は半無重力状態となり、クライエントとセラピストの意志とは無関係にゆっくりとした運動が自発的に起こり始める。

 この動きはやがて全身に及ぶ。あたかもきつく巻かれたネジが緩んでいくような緊張解放運動だ。時には激しい感情解放や過去のトラウマの記憶が浮上したりもする。

 セラピストは運動を意図的にコントロールすることなく、ただ忠実にフォローしていく。この動きは十人十色。実に様々な動きが繰り広げられる。時にとても激しい動きや姿勢が表面化する。数十分間から1時間ほど続けると、やがて全身から緊張が抜け切って、ただ静かに横たわるという姿勢に落ち着く。




 ところが中には静かに横たわるのではなく、逆に体が小さく縮こまっていくことがある。とても繊細な動きでゆっくりと収縮し、首、肘、膝などの主な関節はすべて曲がり、それ以上小さくならない地点でぴたりと静止する。

 それはまるで胎児の姿勢そのものだ。

 指先は口元で止まり、呼吸はほとんど止まりかける。とても安らいだ表情を浮かべる人もいれば、涙を流す人もいる。セラピストは自分の両腕と上半身でクライエントをそっと包みこみ、この姿勢が保たれるようサポートする。

 この状態は愚生もクライエントとしての経験がある。窮屈さとは真逆の、極上のリラクゼーションを味わった。全身から力が抜け、思考や感情もなく、深い静寂に満たされた。 自分の体という感覚が消え、小さくて丸い「空っぽ」の器のようなものとなってプカプカ水に浮かんでいる、という感覚だった。





 胎児のような姿勢での静止状態が約10~20分ほど続くと、クライエントの身体からはムズムズとした小さな動きがあちこちから起こり始める。このタイミングでセラピストはクライエントの小さく縮こまった身体をそのまま両腕で抱きかかえながら、施術台の端まで移動させる。

    次に頭から先にゆっくりと丁寧に床まで降ろす。この動きによって、クライエントは出産のプロセスの疑似体験を得る。

 床に横たわるクライエントはすでに全身汗だくになっている。本当に出産を経験したかのような安堵感に満たされるひとときだ。この約1時間にわたる壮絶な運動と思いがけないドラマティックな結末に至った一連のプロセスを経験したことへの、深い喜びと充足感を感じ、誰もが安らかな微笑みを浮かべている。




 出産時に無痛分娩や帝王切開、或いは器械分娩、分娩誘発などの人為的な措置を行うことは、母親と胎児の命を守るために必要不可欠なもの。

 しかしながら、時として胎児にとってはまだ生まれ出る心と体の準備ができていないことがある。この場合、いきなり強引に引きずり出されるとトラウマとして残る可能性が出てくる。
特に頭を強く引き出す吸引分娩や鉗子分娩を行うと、頸椎にむち打ち症のようなショックを与え、後に様々な障害を引き起こす原因となるケースもある。

 以前、注意欠如・多動症(ADHD)が出生直後から発症したという5歳になる男の子にセッションを行ったことがある。おそらく出産時のトラウマが原因ではないかと想定した上で、頸椎に蓄積した緊張を解放することだけに集中した1時間のセッションを二週連続で試みた。その結果、障害を完全に取り除くことができたのだ。





 セッション中にこの再誕生のプロセスを経験すると、「もっと長くお母さんのお腹の中にいたかった」というような想いが自分の心の奥に残っていたことを知って驚くクライエントがたいへん多い。

 もう一度胎内から自発的に生まれ出るという疑似体験を通過することによって、それまで封印されてきた「この世に誕生する喜び」を初めて味わう。この経験はその後の人生の質を劇的に変容させる。




 深層意識レベルにおいて、神社への参拝はこのような再誕生のプロセスと同じような意識を育む機会となるのではないかと思う。

 母親の胎内という身体の生まれ故郷へ立ち戻る疑似体験と、原始的な深い森や山に囲まれた境内に足を踏み入れること。それらはとても似通った心理的印象をもたらしてくれる。どちらも世間から離れ、穢れを祓い清め、人生をリセットする助けになる。

 ちなみに日々のリセット方法として、浴槽の湯に浸かっている時に体を丸めてしばらく静かにじっとしていたり、ベッドや布団の中で胎児のように丸くなって静かにしているということだけでも、とても効果がある。

 また、泣き続ける乳児を大きな布でくるんで抱きかかえてあげるとすぐに穏やかになるのは、胎内環境に似た状態を思い出すからだろう。


海の神への祭祀
1984年インドネシアバリ島 海辺の集落にて撮影
古代の日本でも社殿ができる以前はこのような大地に根ざした自然崇拝の祭祀が執り行われていたのではないかと思える光景




 古代では、自然崇拝が信仰の原初的形態だった。

 巨木、巨石、泉、山、滝、海。

 自然界の万物に神が宿るとされ崇めてきた。特に古代祭祀の跡地では今も尚、土地そのもののエネルギーが高く、自分がリセットされ、ピュアな自分に立ち戻ることができる。

 神社、ヒーリングワーク、浴槽、ベッド、或いは美しい自然環境、どのような状況であれ、神聖さと繋がるためのコツがあるとすれば、それは静寂と共に在ること。

 大木に寄り添い、巨石に触れ、湧き水を口に含む。
 鳥の鳴き声に耳を傾け、風にそよぐ。
 参道脇に咲く野の花を見つめる。
 石段の影に遠い祖先の足音を聴く。

 境内にいる間は常に沈黙を保ち、日常を忘れ、緊張を手放し、その神聖さを全身で味わうことができたとき、自分の内側には思考も感情もない「空っぽ」が拡大していく。

 やがて「空っぽ」の器には神のご加護が降り注ぎ、至福に満ちたひとときが訪れる。





高住神社
福岡県田川郡添田町








































大分県中津市山国町 猿飛千壷峡





























































福岡県田川郡添田町 英彦山神宮

















目をとじて
西村由紀江 



ありがとうございます




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