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生き抜く力



 連日の強い日差しに負けて、公園の花壇や、我が家の庭の植物たちの葉は乾燥し切ってヨレヨレである。それでも夏の小さな花たちは逞しく咲いている。よほど芯が強いのだろう。絶対に枯れない。決して負けない。

    朝晩の大気には、ようやく涼し気な秋の匂いを感じるようになってきた。あともう少しの辛抱だ。

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 毎年8月になると、中学時代のサッカー部のことを思い出す。何も知らずに遊び半分で入部したのは、東京都内でも有数の強豪チームだった。1年生の最初の夏休みは、何と朝9時から夕方6時まで8時間の猛特訓が待ち受けていた。炎天下、一日中走り続ける過酷さに早々音を上げてしまった。夏休みが終わる頃になって図々しくもノコノコと顔を出してみたものの、待っていたのは部員たちの「何だお前、まだいたのか」という冷ややかな視線だった。

    すでに入部した1年生の半数以上が1学期早々に退部していた。練習がきついだけではなかった。当時のサッカー部が他の運動部と決定的に違っていたのは、不良少年達の巣窟のような場所だったことだ。校舎の設備や備品の損傷は大抵サッカー部員の仕業に決まっていた。トイレでたばこを吸い、服装と髪型は乱れ、廊下ではネックレスをちらつかせながら肩で風切って歩いていた。そんな中、下手くそで怪我が多い軟弱極まりなかった自分は、不良たちの恰好のいじめの餌食となった。

 もうこんなクラブにはいたくないと思い、2学期の終わり頃、顧問のK先生に退部届を出そうとした。ところがその日たまたま雨で部活が中止。急遽ミーティングが開かれることになった。そこで何と思いがけずに、40数人の部員の中から19人に与えられる真新しいユニフォームを自分も受け取ることになったのだ。それはまさに青天の霹靂だった。

 その夜、雨の中を一人で歌いながら家路についた。何故自分がユニフォームをもらうことになったのか、理由はさっぱり分からなかった。しかし胸の奥でボンと火が付いた。全身にメラメラと力が漲った。生まれて初めて味わう感覚は、思春期の身体的な変化とは異なるエネルギーの高揚感だった。

    その翌日から練習がガラリと変わった。それまでいやいやながら耐えていただけの苦行が、突然楽しいスポーツになった。うまくなりたいとか、レギュラーになりたいとか、そういう夢や目標は何もなく、他の部員からのいじめや、怪我の痛み、そんなこともどうでもよくなった。ただハートの炎が内側で燃え上がる躍動感がたまらなく嬉しかったのだ。




 サッカー部の担当顧問だったK先生は当時40歳位。体のがっしりとした体育科教師だった。
 いつも厳しい顔をしていた。3年間、一度も笑った顔を見たことがなかった。チンピラ部員が多かった頃は平手打ちは当たり前。時には腰投げで校庭の地面に部員を叩きつけていたという噂話を聞いた。当時は練習や試合に保護者たちが見学に来ることはなかった。今なら暴力教師として即免職となっていただろう。先生がいる時にはみんないつもびくびく緊張していた。放課後の仕事が忙しい時には、校舎の2階にある職員室の窓から時々校庭の練習を眺めていた。少しでもだらけた練習やおしゃべりしているのを見た途端、すぐに職員室を飛び出してきて、いい加減な練習をするなと顔を赤らめて怒鳴った。

 酷い時には怒りのあまり、定時になる前にそのまま家に帰ってしまったこともある。その夜、部員全員で先生の自宅に謝りに行った。意外なほど質素なアパートの一室で奥さんと二人暮らしをしていた。

 真面目に練習するので、また指導お願いしますと全員で頭を下げた。K 先生が何と答えたのかは覚えていない。しかし帰り際に、それまで静かに事の成り行きを見守っていた奥さんが玄関先まで出てきて、そっと洩らした言葉は忘れない。

 「うちの主人は、子供たちのことを想う気持ちが強すぎて、時々それを抑えきれなくなるのです。ごめんなさいね」

 子供を想う気持ち。
 それがいったい何なのかその時はまだよくわからなかった。
 しかしいつも怖い顔したK先生と、心優しい奥さん二人の慎ましい暮らしぶりを垣間見て、何故か妙にほっとし、嬉しくなった。本当のところK 先生は優しい人なのかもしれないと思った。




 放課後の練習では、時々抜打ちテストがあった。皆の前で一人ずつ様々な基礎的なプレーを10本中10本正確に行うことが求められた。ある日のテストで、遠くから蹴ったロングボールを、ジャンプしながらヘディングで打ち返すというプレーがテストされた。そのとき合格したのは自分一人だけだった。全員のテストが終わった時、K 先生は皆を集めてこう言った。

 「燿はこれまで怪我が多くて、よく練習を休んだりしていたが、それでもがんばってここまでできるようになった。いいか、他の者たちもよく見習って練習に励め!」

 それ以降、いじめはピタリとなくなった。逆にみんなから慕われる存在になった。チンピラ連中から好かれるというのも何だか奇妙な感覚だった。部員のハートが初めて一つにまとまり、そこに自分も加わることができたことが何より嬉しかった。相変わらず一番ヘタクソだったが、その後2年生の後半になってからはレギュラーの背番号をもらい、試合に出れるようになった。やがて東京都大会で優勝し、その後1都7県の代表が集まった関東大会でも優勝した。テクニックは他のチームの方がダントツに上手かった。しかしこのチームが負けなかったのは、チーム全員のハートが一つになっていたからだ。

 相変わらずK先生はそれでも笑顔を見せなかった。優勝旗とカップをもらう選手たちの姿を遠くからただ静かに見守っていただけだった。




 3年生の夏休み、激しい練習の日々を終え、チームは大宮市で開催された全国大会に出場した。2学期からは高校受験勉強に徹し、練習もしなくなる。それが現役最後の試合だった。その頃は自分の最も絶好調な時期だった。怪我もなく、体の痛みもなく、どんな練習をしても上手くできた。

 しかし同じポジションで全国大会のレギュラーに選ばれたのは、自分と同じ位ヘタクソだった同級生の石ちゃんだった。石ちゃんはチンピラではなく、物静かな少年だった。しかし試合で石ちゃんはミスを連発した。あまりにも歯がゆかったので、自分はベンチ前で言われもしないのに、勝手にウォーミングアップをした。絶対オレが出れば試合の流れが変わるとさえ思った。しかし出番はまわってこなかった。

 優勝候補とまで言われながら、予選リーグ2勝1敗で敗退。流石に全国大会ともなると簡単には勝ち進めなかった。試合後、滞在していた旅館の人たちに全員でお世話になりましたと礼を言い、駅までとぼとぼ歩いて向かった。誰もが俯いて黙って歩いた。その道すがら、横に並んで歩いていたK 先生が、突然ぽつりと小さな声で自分に囁いた。

 「燿は、関東大会には全試合出たからな」

 その時初めて先生の心の声を聞いた気がした。自分が交代して出たがっていたことも先生は知っていた。しかしそうしなかったのは、石ちゃんも自分と同じ位ヘタクソで、それまで相当苦労してきたからだ。石ちゃんも歯を食いしばって3年生になるまで諦めずにサブメンバーとしてずっとがんばってきた。時々先生からプレーを褒められることがあった。それを聞いて彼の顔はほころんでいた。彼が全国大会に出場したことは、彼自身のその後の人生にとって、大きな自信となったに違いない。
 試合に勝つことを再優先していたわけでも、選手の力量を見てレギュラーを選んでいたわけではなかった。勝ち敗けよりも子供たちに「人生経験」を積ませることをK先生は考えていたのだと思う。




 「うちの主人は、子供たちのことを想う気持ちが強すぎる」

 奥さんの言葉は、K先生の本質を見抜いていた。K 先生は蝋燭の炎を分かち合うように、自身のハートの炎を、子供たちのハートにも点火しようとしていたのではないか。試合に勝っても微笑みを見せなかった理由がそこにある。勝つことは二の次三の次だった。子供たちにはその先の未来に厳しい人生が待ち受けていることを知っていたからだと思う。

 ハートに炎を灯すことができた時、その経験こそが子供にとって真の人間教育になる。その力を自らの内に見出すことができたなら、その先何が起ころうとも、どんな状況になっても、自力で道を切り開いていくことができる。

    成功や勝ち負けに拘る現代社会の論理よりも、自分さえ生き残ればそれでいいというエゴイスティックな価値観よりも、もっと大きくて、大切なものがこの世には存在することをハートは理解できる。頭は「過去」を分析し「未来」を想像する。ハートの目覚めは「今」を生き抜く力をもたらす。






北九州市内 夕暮れの公園



































































Piano Original 「優しい夏」🌻
Akiko Akiyama Piano Relaxing




お疲れ様です
もうすぐ夏も終わりです





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