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「今を生きる」ってすごく純粋。ただそれだけの喜びなんだな。


公案のリトリートで、
なんだか、おおおおお〜〜〜
ああああ〜〜〜。って
ただ感動が湧き上がるって
こういうことか、を感じた話。



あなたが、食べるになる
あなたが、歩くになる。

って言われたら、どうする??


私が、食べるになる。って

ごはんを食べる。ってことに
自分が完全にコミットして食べる。
食べるになりきる。みたいなこと。


あるいは
外を歩いているときに「歩く」ことだけに
完全に意識を向けてコミットして、歩く。


なんやねん。それ。って最初は思ってしまう。
味わって食べるみたいな感じかな。とか
体感するってことかな。と頭で解りたいと思いながら
自分の中のそれが、なんとなくペラペラな感じがする。


夜の「歩く」瞑想の中で、歩くときに
「あ、水の音がしている」
「あ、前の人に遅れちゃダメだ」
「あ、**がいる」
ってまあ、いろんなことを
「頭でぼやぼや思いながら」歩いている。

それで感じていると思っているのって
すでにペラペラな感じなわけです。
頭でっかちな。


いちいち頭の中で会話しながら
ああ。これ、歩くになりきるじゃなくて
たくさん判断しているな。
って思ったのです。


で、折り返しの帰り道に言われた言葉はこれ。

歩くになりきってください。


一歩一歩、自分が歩くことに
集中してみる。
体をどう動かしている?
体(あし)でどんなことを感じている?
体を動かすことに、何を感じる?



で。
ふむふむ。それならできそうだ。
やってみようと思って
歩いていて

しばらくしたら、
ものすごい楽しくなった。

自分と一緒に自分が歩く感じがして
そして
歩くって、こういうことなんだな。と
なんだか突然思ってしまったのだ。


ワクワク、するような
ただ、歩くのが嬉しい。みたいな気持ち。


そこで、子どもが歩くってことを
思い出したのです。


小さな子どもたちって、やたら歩く。
歩き初めの子は、
ただ歩いているだけで楽しそうだし

それ以外の子も
あっちへぶらぶら
こっちへふらふら、歩く。


小学校に入っても、道端のタンポポを
じーっと見ていたりする。
そのために、道草を食いながら「歩く」


それを私たちは
目的地につかないとか
遅いとか危ないとか言ってしまう。
ちゃんと歩かないと言ってみたり
落ち着きがないと言ってみたりするけど


大人は、歩くは目的地に着くための移動手段で、
ただの動作として見るんだな。
有用と無用のどちらか、
と言ったら無用な歩く楽しみ
みたいな扱い。


だけど、今を生きている
と言うところから見たら、
それだけですごいこと。

子どもたちの歩くは
ただ、歩くのが生きている
ってことでもあるんだな。
なんてことを思った。

そして
それって、それだけで
とってもとっても幸せなんだな。
と、ぶわーっと思ったのでした。


それくらい、
ただ、歩いているのが幸せ。
って感じを持ったことなんて、ない気がした。

子ども時は思っていたのかもしれないけど
覚えていない。


なんだ、このなんかじわっとくる感動・・・と思ったとき
何かに似ていると思ったら、
子どもの「歩く」に同じ匂いを感じたのでした。


子どもを育てていると
何度も何度も、
「子どもは自分で育つ力がある」
という言葉を耳にしては

はっとしたり、
そうだ、と思ったりする。


でも、この自分で育つ力って
自分のしていることが
本当に、純粋に楽しくて仕方ない
というのが始まりなんだな。とも思う。

これを体感で知っているかどうかは、
すごく違いを生む。
人生の差を生む気がする。



丁寧な暮らし。
みたいなお題目を自分に課すより
ずっとずっとずっとパンチがある。

いただいたサポートは、子育てのDVから回復する支援をしている団体に寄付します。ありがとうございます。