事実と思い出は違う(ガキ使ききシリーズ、インタビュー調査)
先日、次のような文章を読みました。
体験したことについて、単なる事実として述べるのと、思い出として「語る」ことは違うんだよ、というものです。
たとえば戦争経験のない私にとって、教科書などの歴史としての記述に加えて、祖父母や語り部らの「語り」が、戦争についての貴重な情報源でした。
両者は、確かに異質なものだと感じます。「語り」には”現在の”語り手(さらには聞き手)によるものだ、という要素が含まれるからです。
ほかの例も挙げてみましょう。
皆さんは、ダウンタウンさんのテレビ番組「ガキの使いやあらへんで」の「ききシリーズ」はご覧になったことがありますか?
この企画において、正解できなかった芸人さんのよくあるコメントに、
「自分が(最初に)食べたのはこの味じゃない!」
というものがあります。
冒頭の指摘を踏まえれば、たしかに不正解ではある(事実)ものの、その回答者にとっては(語り)、確かに「違う」のかもしれないな、と思ったのです。
(もちろんテレビを視聴している際は、その往生際の悪さに笑ってしまいますが。笑)
事実と語りは異なる。
ここで思い出したのが、大学時代に浮かんだ疑問についてです。
「インタビュー内容は、どこまで抽象化していいのだろう。」
私は論文執筆の際、アンケートに加えてインタビュー調査も実施しました。
そこで、”質的”調査であるインタビュー内容の扱いに悩んだのです。
(当時はあまり時間もありませんでしたので、疑問にはそっと蓋をして書き進んでしまいましたが…)
「語り」であるインタビュー結果を分析するにあたり、内容を抽象化するということは、何らかの要素を捨てることになります。
「何か大事なもの」、今思えばそれは「語り」がもつ持つ現在性ですが、それを捨象してしまうことに対する違和感だったのかもしれません。
以上、少しあいまいな書きぶりになってしまいましたが、事実と語りについての雑記でした。