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ドイツの生活。 『僕は却下される、それも僕から』

人は人生で、何度も『却下』を経験する。僕がもう一つ人形が欲しいと駄々をこねても、僕の母はダメ、と言い続けた。学校の友達全員が、急に僕を無視し始めて、僕はその一年丸々、一人で遊ぶこととなった。僕の父は、天文学者になりたいという僕の夢を否定し、「星だけ見て、どうやって金を儲けられるんだ」と言った。大学入試で、不合格通知を受け取った。就職面接では、何度も不採用の通知を受け取った。会社の上司は、幾たびも僕のプロジェクト提案を拒絶した。僕の隣人は、これで三度目の児童預かり所からの不採用を受けた。もう3時間も、僕はこの喫茶店で、今日のデートの相手が来るのを待っている。
ここで僕の言いたいことは、「こういうのはOKなんだ、もちろん、いつも不採用を受けるのは、全くいい気持ちではないけれど。」却下、不採用、不合格、拒絶は、他の誰か決めるものだ。他の誰かが、僕について、彼自身の結論を出し、却下を通達する。最悪なのは、僕が、僕自身を却下すること。それは他の誰でもなく、僕がそうするのだ。かと言って、僕は憂鬱症ではない。小さなことから大きな決断に於いてまで、僕は、僕自身を信頼していないのだ。
本当のところ、今日、僕はトンカツを食べたかった。でも、昼ご飯前に、会社の同僚が、揚げ物の不健康なところを話し始めたので、僕はサラダを手に取った。僕は、ヴェネチアから中国まで、シルクロードを旅してみたいといつも思っていた。しかし、僕は、僕の理性がこねくり出した、どうしてこの冒険をするべきではないかという、百の理由を挙げ出した。僕の魔物が、僕の頭の中で囁き続ける、「君は危険な戦争地帯を通り抜けなければならない、君は仕事を辞めなければならない、君は通過国の全ての貨幣を集めないといけない、現実的ではない。」読者諸君は、僕が天文学者になりたかったことを知っている。現実は、バイエルン州のど田舎で、毎日、工場でランプを作っている。
それがトンカツであれ、旅行であれ、夢の仕事であれ、このように、僕は僕の考えを拒絶してきた。もし、僕が本当にやりたかったら、もし今日それができなくても、後日、それを実現できたはずだ。人生というのは、むしろ民主主義的で、我々は、人生において、過去のアイデアや昔の夢を実現するチャンスに、何度も巡り会える。それでも、僕は、自分の夢を拒否したのだ。僕は、父親のいうことに逆らって、後日、天文学を勉強し、NASAで働くこともできたはずだ。シルクロードだって、部分的にゴビ砂漠まで旅行することもできたはずだ。僕、いいや、僕の理性というやつが、僕を拒否したのだ。僕の体自身が動き出す前に、僕の理性が信号を消してしまうのだ。
自己否定は一つの生活習慣だ。僕はそれから逃れたい。可能なら、親愛なる神に、僕の理性を返上したい。今日から僕は、道を逸れてやる。もし、青色のペンで書きたいと思ったら、僕は赤色を手にする。休暇?ノルマンディー行きは辞めた、ドイツの工業地帯のど真ん中で休暇を取るぞ。このように、一歩一歩、逸脱してゆく。僕は、この旅が僕をどこに導くかを知るよしもない。
とうとう、僕はこの文章を書きおえて、出版社に投稿する段階に到達した。そう、再び、あの瞬間がやってきたのだ。僕は思う、「出版社は、僕の投稿なんて、初めから受け取らないよ、ど田舎のランプ工場の工員を選ぶ理由が、一体どこにあるんだ。どうぞ、僕を不採用にしろ!」

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