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哲学カフェの「安全安心」について

安全安心は信頼のこと

安全安心とよく言われますが、それについて考えようとしても当たり前のことのような感じがしてよくわかりません。手がかりを得るために、たとえば英語で表現するとしたら、どのような表現が適切だろうかと考えてみました。

調べてみると英語のよくある表現では Safe、またはSecure(どちらも日本語に訳すと「安全」)と表現することが多く、安心に類する表現を見かけませんでした。ですが、日本語の安全安心という言葉には、心理的安全性も含まれているだろうと思うのです。

そんなことを考えながら言葉を探してみたところ、

Safety and Reassurance
(安全性と、保障による安心)

こんな表現にしたら適切ではないかと思いました。

英語での表現を考えてみたのは、日本語より英語の方がよいという主張ではなく、別の言語で表現しようと考えてみることで「この言葉で表現したいポイントは何か」が見えてくるかも知れないと思ったからです。日本語圏ではもちろん、安全安心で構わないと思います。

安全は客観的なもの、安心は主観的なもの

多くの場合、危険がないことの保障を指して安全と呼ばれると考えられます。宣伝文句やスローガンだけの安全が、本当に安全ということにはならないでしょう。「言うからにはきっと保障があるのだろう」という印象はあっても、実際に保障があるとは限りません。そして安心は、その保障を信じられることだと考えられます。

安全という言葉が使われる場面を考えてみると、工場や工事現場、事故現場など、そもそも危険がありそうな場所が思い浮かびます。そういう場所ではよく知られた危険なことがあって、それぞれの危険を減らす工夫が求められ、具体的な「危険を減らす工夫」が施された時に言われるのだろうと思います。なんの根拠もなく誰かが「安全だと思う」ということではなく、客観的な根拠をもとに「ある危険に対して安全と言える」ということです。

これに対して安心という言葉が使われる場面を考えてみると、信用できる人のそばとか、ブランドイメージとか、あるいは自分の中にある信頼感を表しているように思います。誰かが熱烈に推薦してくれても自分の中に猜疑心があれば安心できませんし、逆に、みんなが不安視していても自分が強く信じていれば安心できるのでしょう。

ですから安易に、「安全だから安心できる」とは言い切れないものがあります。安全だけど安心できない(信じられない)場合もあるし、安全でないのに安心する(信じてしまう)場合もあるのでしょう。

たとえば信頼を裏切られたと感じた時は、安全度が少しも変わらなくても安心は崩れ去り、簡単には戻らないのだと思います。あるいは、公正でない統計やデタラメな学説、力強いだけのメッセージを、なんだか信頼できそうだと思えるほど安心できてしまう。そういう性質があるものだと思います。

〈具体的な行動〉と〈約束〉で守るもの

守りたいものを具体的にし、守りたいものの脅威を具体的にし、検知する具体的な方法を考え、具体的な被害を想定し、できることを形にする。そして実践し、点検し、改善する。そのような取り組みによって、客観的に安全は作られるものだと私は思います。守りたいものも定義していない、脅威も具体的でない、危険の兆候もわからない。そんな状態を、いったい誰が安全と呼ぶでしょうか。

また、安全の理由が誤解なく説明されることで与えることができる〈約束と信頼の呼び名〉が安心なのだと私は考えています。たとえば詳しい説明もなく「とにかく安全だから大丈夫!」と自信満々に言われても、それでは何もわからないから安心できないということもあるでしょう。説明通りの対策をせずに事故を起こしたり、何度も同じ失敗を続けたりする人の言葉では安心できないということもあるでしょう。だから〈約束と信頼の呼び名〉だと思うのです。

もし「何もしなければ危険がある」のだとしたら〈具体的な行動〉が伴わなければ安全を保障できないでしょう。運任せ、参加者任せでは安全とは言えないと思います。また、安全を保障するという〈約束〉を裏切らないよう努め続けなければ、安心を維持することは難しいでしょう。

交通安全との対比で考えてみる

では、どうしたら具体的に考えられるのか。その手がかりを掴むために、すでにある安全への取り組みを参考にしてみます。

次の表は、交通安全の取り組みを参考に、安全を実現するための観点を6つに分類して整理してみたものです。対比して考えたい「哲学カフェや対話の安全を作っているもの」の列は空欄にしてあります。

万能なやり方ではありませんが、この表のように穴埋め問題にして考えてみることは少しだけ具体的に発想しやすくなると思います。

(表)安全を作る観点
(表)安全を作る観点

この表を見るとわかるように、交通安全は法規やルールやマナーだけで作られているわけではありません。技術や方法論、設備、教習や免許制度など、複合的な取り組みで実現しています。

安全に限らず、現実の問題に対処するには、ルールやマナーもさることながら、①と④が極めて重要だと考えています。壊れたハンドル、効かないブレーキ、踏み込んだら戻らないアクセル、安全装置は一切なしという車を想像すれば、その危険性は明らかでしょう。また、安全確認なしで運転することがそもそも危険だということもあります。しかし、免許取り立てのドライバーに絶対にトラブルを起こすなと言っても無理があります。誰しも未熟なところからスタートしますし、熟達には時間がかかるものです。やる気やルールだけで解決するはずがないのです。方法論も、技能の習得も、仕組みも必要ない…そんなはずがありません。

たまに「ルールを増やせばいい」「厳しく取り締まればいい」という意見の人に出会うことがありますが、その考え方の先にあるのは守れない人の排除でしょう。守れない人の中にはそもそも守る意志がない人もいるとは思いますが、守り方がわからなかったり、必要性がわからなかったり、感情をうまくコントロールできなかったりするのかも知れません。うまく振る舞えないというだけで「ルールや安全を守る意志がない悪い人」と決めつけてしまう場は、果たして安全なのでしょうか。うまく振る舞えない人も、周囲の人たちが自然にアシストしてくれるような場の方が、安全ではないでしょうか。

ところで、この表にはあえて外したものがあります。それは車自体の進化・発展です。エアバッグやABSなどの技術や、素材や剛性の改良なども安全に対する重要な取り組みで、これらによって安全性は高まったと言えるものです。車自体の安全性を高める取り組みですが、これを対話に当てはめようとしてもうまくいきそうにありません。未来にどうなるかはわかりませんが、まずは技術や方法論からだろうと考えて、表には含めませんでした。

また、交通安全で「これでもう安心」と思うことはないでしょう。気をつけていても危険は0%にはなりません。この表はあくまで安全を考えるためのモデルであって、安心のモデルとしては適さないと思います。

具体的な取り組みなしに、安全安心はない

抽象的に考えることはもちろん大切だと思いますが、ぼんやりと「安全安心ってなんだろう」「大切だよね」「安全安心に努めたい」「勉強になりました」「がんばります」という会話をするだけでは、なんとなく真面目に考える人たちの側にいる気になれるだけです。いつまでも何も生み出せず、何も安全にならず、みんな「よくわからない安全安心」の中で、たまたま危険が表に出ない日々を過ごすのだと思います。その陰で黙って傷ついている人たちに気づかないまま。

現実に何かの安全を作り・守っている人たちは、たぶん違います。何を守りたいか、何から守りたいか、どんな危険があるか、どんな兆候があるか、どうやって守るか、どうやって安全を検証するか、何を約束できるかを、抽象的にも具体的にも真剣に考え、取り組んでいると思うのです。

明確な目的、定義された脅威、方法論、実際の行動、少なくともこれらがなければ「具体的に努力している」とは言えないだろうと思います。なにしろ客観的に努力が見えません。さらに言えば「考えている」とも言えないのではないかと思うのです。具体的な問いも見えないからです。

たとえばオンラインバンキングで、最近増えている詐欺やウイルスなどの被害状況を知らなかったり、十分な不正アクセス対策をしてくれなかったり、たびたびATMが使用できなくなってしまったり、システム不備による様々な問題の補償をしてくれない時など、「銀行はお客様の安全安心に努めています」と説明しても誰も信じないでしょう。真剣に考えているのか!?という苦情が聞こえてきそうです。

〈より安全な行動〉をいつでも実践できる

安全であるために気をつけるべきことはたいてい小さな兆しであって、危険そのものではありません。誰にでもわかるような危険として現れてしまえば、その時はもう安全とは言えないでしょう。小さな兆しが危険に変わるのか、取り越し苦労で済むのかはわかりません。そういったものは、意識して注意する程度では見落としてしまうものでしょう。

道路脇に駐車してあるトラックの陰からは子どもが飛び出してくる…とは限りませんが、運転中は注意するポイントのひとつでしょう。見通しの悪い交差点や、近くを走るバイクや自転車も気にした方がいいです。そんなことは習っているし、わかっているはず。でも、小さなことに注意しなかったことが原因で、あちこちで事故が起きています。

不注意といえば不注意です。注意すれば実践できることを、注意を怠ったから実践しなかった。

…本当にそうでしょうか?

想像してみてください。ロールスロイスを任されるベテラン運転手がそういうミスを犯すでしょうか。彼らはなぜ要人が乗る高級車の運転を任されているのでしょう。彼らはいつも、安全で快適な運転のために精神をすり減らしているからでしょうか。きっと違います。彼らは不注意に左右されるような行動習慣ではなく、より安全な行動習慣を身につけていて、常に実践中なのだと思います。それは、危険の芽がないか観察し、あれば前もって避けるとか、そもそも危険な状況を作らない行動なのでしょう。考えなくてもいつでも実践できるスキルを持っていて、おそらくプライベートでも習慣が崩れないだろうと思います。

「注意すればできる」というのは、「意識して注意しなければできない」ということです。ですが、常時意識し続けるのはとても大変で現実的ではありません。注意すればできると疑いもなく思う人と、より安全な行動を考えて不注意に左右されない修練を積み重ねた人とでは、安全安心に対する考え方や取り組み方や責任感が根本から違うのではないでしょうか。

不注意という言葉で捉えてしまうと、注意が足りないことが主な原因のように思えてしまいます。

ですが本当は、安全な行動習慣が身についていないことの方が大きな原因でしょう。不適切な行動習慣でもがんばって注意すればカバーできると考える方が、杜撰で無理があると私は思います。

とは言え、参加者にそんな厳しいことを求めるのも現実的ではありません。そんな無茶ぶりをしなくとも、進行役が適切に安全確認をしていれば多くの場合で安全を維持できると思います。ただ私は、安全安心は思ったり語ったりするよりずっと難しくて、真剣さも練習も必要なことで、何より具体的な実践を積み重ねなければ身につかないスキルを必要とするものだとも思うのです。もし私のこの考えが妥当だとしたら、真剣で具体的な努力を十分に積み重ねていない段階で「自分は安全安心を心がけている」と思うことは、むしろ危ないことだと思うのです。特に、その場の安全安心を担う進行役ならなおさらです。

安全は、少なくとも精神論ではないはず

もし具体的に何もしていないのであれば、大切に思う気持ちがあろうと何もしていないというのが現実です。「がんばっている」はなんだか免罪符のように感じられるものですが、実効性を期待する人たちにとっては独り善がりでしかありません。がんばれていない自覚に比べ、むしろ安全を妨げているようにも思えます。気持ちは純粋で真面目なのかも知れませんが、それを努力とは呼べないでしょう。

その反対に、具体的にすることはとても面倒で、やっかいで、苦行や徒労のように感じられることもあります。ですが具体的にすることは、たとえがんばる気持ちがまったくなかったとしても、具体的にした分だけできることが増え、具体的に反省もでき、具体的に成長も効果も実感できる、おそらく唯一の方法だと思うのです。

安全安心とは何か、どうあるべきか、いかに大切かを語り合うことも必要だとは思います。しかし、〈安全安心のために自分がいつもしていること〉を語り合う方がずっと建設的だと私は思います。「しようと思っている」ではなく「具体的にこうしている」と言えること。そこに〈していないこととの境界線〉があります。

防災や防犯の理想論や大切さをいくら語ってみても、実際にしている行動以上の効果はありません。消化器を配備しておかなければ火事の時に困りますし、セキュリティサービスと契約していなければ警備員も来ません。知っていても自分にはできないことだってあるかも知れません。護身術の本を読んで知っていても、練習していなければいざという時に体が動きません。

安全安心を大切だと思っているとか、安全安心を守るためにがんばっているといった気持ちはいったん横に置いて、ためしに〈安全安心のために自分がいつもしていること〉を紙に書き出してみてください。書き出せたことだけが、実際にしていることです。実際にしていることが見えれば、それが本当に効果的かどうか、弊害はないか、具体的に検証する助けになるでしょう。

自分ができてもいないことをあれこれと語り合うより、自分がいつもしていることを語り合う方が、実際の安全安心に一歩近づくのではないかと私は思います。安全を支えるはずの、客観的な根拠になるからです。

今後の予定

この記事を書いた動機は、安全安心についてぼんやりと語られてはいても、行動につながりそうな具体的な意見が出てこないと感じたからです。

これまでの私の少ない経験の中で、ここは安全安心だと思える場はいくつかありましたが、多くはそうではありませんでした。特に危険なことがあったわけではありませんが、薄氷を踏む危うさを感じることはしばしばありました。一体、何が違うのか。

しばらく考えてみて、これは思った以上に難しいと感じたので、自分の考えをもっと具体的にしてみようと思ったのです。

時間はかかるかも知れません。でも、少しずつでも、何を守りたいか、何から守りたいか、どんな危険があるか、どんな兆候があるか、どうやって守るか、どうやって安全を検証するか、何を約束できるかを、具体的にしていきたいと思っています。


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