質問

哲学カフェはカウンセリングに近いもの?

※この投稿は質問箱の回答を再掲したものです。

■「私自身の動機を問われる」について

もしかすると、人によっては「わかりにくい問い」なのかも知れません。

私は問いを出す場合、「なぜこの問いを出したのかという理由」も併せて述べることが多いのですが、そのためかあまり個人的な動機を訊かれることがありません。

質問者さんも、問いと一緒にそれっぽい理由も言ってみてはどうでしょうか。

■「真実に近いものを見つけること」について

真実に近いものを見つけることができるかどうかは私にはわかりませんが、全員で一緒に探っていくことはできると思います。

私は、哲学カフェというのは「一緒に真理を探っていく過程を楽しむもの」だと思っています。この点は質問者さんも私も、意見が近いと思います。

共通点を探すために個人の具体的な話を聞いてみる…というのはよくあると思います。だからそれ自体は構わないと思うのですが、ひとりの話を根掘り葉掘りとなってしまうと、一体その場はなんの場なのか?という疑問が湧いてしまいますね。

そうなると哲学をしようという目的はどこへやら、問題解決の場になってしまいますよね。そういうのも哲学カフェの面白さだと言う人もいるかも知れませんが、もしも主催者やファシリがそれを言ったとしたらとても無責任なことだと思います。

■「臨床の場なのか?」について

私は臨床の場だと思っています。

ただし、悩み相談や診療としての臨床の場ではなく、生活する場所で哲学するという意味での臨床の場です。他の人はどう考えるのか?というのを実際に体験し合う臨床の場だと思っています。

後述しますが、哲学をするための場であって、助言してあげる場でも、上から目線で教えてあげる場でもないと思っています。

■抽象と具体例

私が「哲学的に考え」ようとする時は、具体的なことから抽象を考えたり、抽象から具体例を考えたりを行きつ戻りつします。あるいは普遍性があるか?ないか?とか、普遍性があるとしたらどんな具体例があり得そうか?とかを考えます。

私だけに限らないのだと思いますが、そうは言っても具体例が思いつかない場合もあります。そういう時、まさに具体事例をお持ちの質問者さんに聞いてしまうのは、楽だし早いと思うのかも知れませんね。

でも、質問されたからといって、なんでも答えなければいけないわけではありません。ご自身の答えたい範囲にとどめても、まったく問題ないと思います。

■求めていない助言について

カウンセリングをしてもらいたくて参加する人も中にはいるのかも知れませんが、本来そういう場ではないですし、質問者さんが相談したわけでもないですよね。

私もそういう場面に立ち会ったことがありますが、哲学カフェの時間中に助言をするのは控えた方がよいと思っています。もっと強く、禁止にしてもいいくらいです。

求めてもいないのに勝手に助言をしてくる人は、一般常識で考えても「大きなお世話」で「迷惑な人」だと思います。独りよがりな助言ほど役に立たないものもないくらいですしね。

質問者さんは楽しくもないし、ありがたくもなかったのでしょう。それは当然です。

ですから、もし次にそういうことがあったら「そうですね、自分で考えてみます」と笑顔で答えて、さっさとその人の前から移動してみたらいかがでしょうか。

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