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タレブvsピンカー論争と新型コロナウイルス


スティーブン・ピンカーとナシーム・ニコラス・タレブは昔からお互いの主張の食い違いが原因で仲が悪いらしい。自身のホームページで公開した論文形式のPDFであったり、Twitter上であったり、あるいは直接の対面であったり、場を変えてかれこれ10年はお互いのことを批判し続けている。

とはいえタレブの方がずっと攻撃的かつ直接的で、シリーズ最新作『身銭を切れ』でもピンカーのことを名指して批判していた。何回も槍玉に上げられるのですべては紹介しきれないが、「ナイーブな経験主義者(=確率を理解せずに過去だけで未来を決めつける)」、「自著で使っているデータを全く理解していないか、自分の主張にデータを合わせているだけ」等々。


ピンカー自身も、今後悪い事態が起きる可能性は小さいだろうとしながらも否定していない。ただ両者の議論はこの可能性や確率といった領域において全く噛み合わない。なぜかというと、ピンカーはそうした小さな可能性を無視した上で、昔より今は良い社会になっているというトレンドを図示しているだけなのだ。

これは人文学的な視点からの、現実に対して悲観的になってはいけないというメッセージとしては誤っていない。しかし、タレブが指摘するようなリスクを過小評価するようなデータの使い方をピンカーが犯してしまっているのも事実だ。

例えばピンカーはエネルギー政策としては原発推進派であり、その理由を『21世紀の啓蒙』の中でこう述べている。

「60年間にわたる原子力の利用で発生したのは、1986年のチェルノブイリでの31名の死者と、それに伴う数千人のガンによる早死だけだった」
「残る2つの大きな事故、スリーマイル島と福島では誰も死ななかった」
「(一方で、火力発電による)汚染や、掘削、移送時の事故による死者は原子力による死者より数十倍から数百倍も多い」


タレブの著作を読んだことがあれば、そして日本でなお原発事故の後始末が問題になっていることを考えれば、この論理展開には少々無理があると言わざるを得ない。

問題なのは、

● 過去に起きなかったのだから未来でも起きないという決めつけ
● 破滅的な事象が起きる確率を無視した数値の単純比較

という2つの点だ。コロナが始まって間もない時期によく耳にした、パンデミックによる死者より○○(伝染しない病気、交通事故、餅 etc. )による死者の方が多いという論調もそれだ。これは適切な策が講じられない場合、パンデミックの死者がかなりの確率で指数関数的に増加してしまう点を無視している(そして実際この冬そうした事態になってしまった)。

100年ぶりの世界規模のパンデミックも、ピンカーの視点から見ればチェルノブイリや福島同様、トレンドから外れた単なる小さな出来事に過ぎないが、タレブの視点から見ると起きるべくして起きた事象ということになる。

途上国の不衛生な畜産市場でウイルスが変異し、グローバル化によって密接に繋がった人・モノの流れを通じて全世界に拡散される、というシナリオは昔から予期されていることだった。


そして、タレブはコロナが世間を騒がせ始めた去年の1月には既にペーパーを出しており、その後もいくつかパンデミックのリスクを過小評価してはならないという警告の論文を出している。

しかしながら、タレブら慎重派の意見を取り入れたのはごく僅かだった。パンデミックから1年が経ち、各国が独自に取った戦略についてもその明暗がはっきりしている。

勝者はニュージーランド、シンガポール、台湾などのごく一部で、感染の初期段階から、感染規模に対して一見過剰にも思えるリソースの投入やロックダウンを実施したことが功を奏した。

その他大多数の敗者は、リスクを無視したか、あるいはコントロールできると錯覚したか、そもそもデータすら見なかった国々だ。

新しいウイルスが発生することは仕方ないが、世界全体の感染者が1億を突破するような大惨事になったのはリスクを適切に評価しなかった人々による人災と評価するしかないだろう。

タレブが常々指摘しているように、社会科学や金融といった諸分野、要するに政治経済を動かす人々の間で確率や統計は適切に扱われているとは言い難い状況だ。今回のパンデミックは、リーマンショック同様、我々の確率に対する無知がもたらした災害と言える。多くの国の政策決定者は、初期のロックダウンの経済損失に衝撃を受けて、収束しきらない状態で経済回復策を打ち出し、冬の大流行を招いた。

この世界が再びピンカーの楽観主義を受け入れられるような状態に戻るためには、私達がより確率や統計を理解する真の啓蒙活動が成就するときだろう。


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