見出し画像

悪趣味な改題が許せない大変趣味のよい大衆と、彼ら彼女らに迎合しない硬派な人気取りについての雑文

この通り、まじめに考えてもダサいタイトルしかつけられない人間がいる一方で、世の中には美しいタイトルをあえて無粋なものに差し替える組織もある。

こちらの改題、Twitterでの一時的な反応に過ぎないとはいえ、すこぶる評判が悪い。
もちろん一部には僕のような逆張り人間がいないこともないのだが、基本は「原題の方がいい」「読む気が失せる」「商業主義の末路」というような苦言の嵐だ。

僕の趣味嗜好が安っぽさ、商業主義、大衆主義、貧乏性に偏っているからそう感じるのかもしれないが、「目先の利得を取るな」という非難は、趣味人としては少しばかり狭量に思える。美学のふりをした、読者(もっと広く言えば“消費者”)の傲慢が隠れている気がする。

たとえば。

僕・私の部屋にあって美しいものがいい、という主張が本当に作り手にとっても喜ばしいものなのであれば、ローソン商品の新デザインはあんなに賛否を呼ばなかっただろう。
本は食料品や消耗品とは違う、と言うなら、文庫本の賞レースというバックグラウンドとは取り合わせが良くない。間違いなく素敵な信念ではあるものの、批評としてはアウェー、つまり、お門違いだと感じられる。
つまり、大衆的で分かりやすい、チープなタイトルがついていることを“文脈とは無関係に”悪として断ずる姿勢は、些か陳腐なのではないか、というのが僕の所感だ。

日本に輸入された洋画のポスター。どこに行ってもかかってる紅白出場がカタいヒット曲。皆が学校で真似する今旬の芸人。
僕らの周りには、確かにそういう“商業主義の暴力”みたいなものが沢山ある。本当に沢山ある。そこに飽き飽きするのもよく分かるし、僕もちょくちょく飽きている。

だが、こんな例えを使うとどうだろう?
今、百万人が知っているトレンドの場合、一万人くらいはもう飽きてうんざりしている。それでも残りの一億人余りはまだ知らないニュースなのだ。

少し強い言葉で締めくくらせてもらうならば、
大衆に迎合することを批判する大衆は、それを知らない。

常に前よりダサい語りを心がけます。