知ること
僕らが、過剰な情報の海に投げ込まれて久しいが、渦中にいては、その変化がどう僕らの精神に影響を与えているかは、はっきりと感じにくい。
身体の成長と同じで、少しずつ変わっていくものは、外からたまに眺めているくらいの方が、その変化に気が付きやすい。
とは言え、人類全体でその渦中にいては、外から眺めるのも中々難しく、数値化できるものだけを、その傾向で云々悩むくらいが関の山だろう。
今の時代は、僕たちにとって“善い”のだろうか。
人が求めてなっている今である。人は情報を欲しがる。欲しがるから増える。身体的制限をともわない欲望は無限である。
情報が増えれば、自ずと付合う情報の数も増えていく。そうすると単純な考えだが、一つ一つの情報の価値は減ってゆく。情報の価値とは、時間と密接に関わっている。具体的に付合う時間が、考える時間にもなり、そこから色々な価値が生まれる。
しかし、無限に流れてくる情報の上を、考えるより先に指が滑っていく。
先日、6歳になった息子と話していた。
「1番、楽しいことって何?」
「お絵描きとテレビ」
「どっちかなら?」
「テレビ」
「テレビは何が1番好きなの?」
「YouTube」
「YouTubeはいろんな番組あるじゃん、どれが好き?」
「まだまだ、知らない見てないのもたくさんあるし、無限にいっぱい出てくるから1番なんて決めれない。すぐに変わっちゃう」
おっしゃる通りである。
日に日に見るものが目まぐるしく変わっているのを、後ろから見ていて、こちらも考えさせられていた。
僕が子供の頃は、週に1度の漫画雑誌の最新号が待ち遠しかったのをよく覚えている。連載物のページ数は少ない。十数ページだったかと思う。それを1週間のうちに何度も読み返す。そして好きなテレビアニメは水曜日の夜7時から30分だ。
こういう時代は戻ってこない。どちらの時代がいいかという、選べる立場に僕らはいない。僕らは、着実に欲望に正直に進むようにできている。そして量が増えれば必ず僕らは、消費に走る。たくさん「知っている」方がいいと思う。新しい刺激を目の前に、知らずに通り過ぎることはできない。しかし、知れば通り過ぎるのである。新しい刺激を求めて。
知るとは入口でしかない。そこから腰を据えて付き合ってみる、考えてみるという営みが、世界に奥行きを作ることを「知らない」子が増えぬよう、過剰な情報の海に生まれた子たちと、腰を据えて対話していきたい。
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