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Yのこと

先日ミュージシャンのKANが亡くなったとニュースになった。仕事の合間のネットニュースで見かけた瞬間、頭の奥の方で何かが一瞬よぎった気配がした。KANという人のファンでもないし曲はたった一つ「愛は勝つ」しか知らないわけだからそのよぎったものがKANとは別物であることは間違いない。

仕事帰り車の中でFM放送を聴いていると「KANさんのこの曲を!」そう、「愛は勝つ」が流れた。その時だ。昼間の「一瞬よぎったもの」が鮮明に浮かび上がってきた。はっきり具体的な形やその時の場の匂いや肌触りまでが不気味なほど鮮明に立ち現れたのである。
Yのことだ。

10歳年下のYという後輩のことだ。新任教諭として私の勤務していた高校にやってきた。Yが23歳、私が33歳の時だ。同じ教科、私が担任を持っていた学年の副担任に加わったこともあって自ずと近く、親しくした。それもあるが、だいたい新人が来ると誰かしら教科内では「新人育成係」が設けられるものだ。それも私だった。

現場は厳しい環境だった。いろいろな意味で。校内暴力は下火になりつつあったものの、新たな学業不適応の事例には事欠かなかった。不登校などという言葉が初めて言い出されたころのことだ。悲惨さを競っても仕方ないが、そうしたことにはやはり現場経験がものをいう。「ものをいう」というのは荒れた生徒に対して「強面で迫る」という意味もあるが、もう一つあって、「大概のことには慣れる」でもある。

Yは日々驚きの「学校現場」に、憂いつつも徐々に慣れつつあった。新人らしい情熱もあったし物事を深く考えるところもあった。そういったところは私よりはよほどしっかりもしており冷静でもあった。私たちは授業だけが守備範囲ではない。荒れた生徒、病んだ生徒、来ない生徒、来すぎる生徒(たまに退学したようなヤツがバイクで殴りこんできたりした)バカな管理職、冷淡な事務方(全員とは言わない)セクハラ教員(これは居た、名前は言わない)、アカハラ教員(これも居た、「お前らには左手で十分だ」と言って右利きのくせに左手で板書したヤツがいた。この教員には私がブチ切れて空き時間に密室へ呼び出して大きな声で説教した。本当はボコボコにしたかった)…きりがない。おまけに土日がない。運動部顧問はさすがに今でこそ社会問題みたいに言われておおよそ娑婆の人々にも共有されるネタになったが、当時はそんな配慮はひとかけらもなかった。誰かが「男は皆スリコギ」とか言ってたが、ま、そんなもんだろう。

というわけで酒を飲む。
Yとはよく飲んだ。

時にはまともな話もした。授業の展開や個別の問題にどう対処したらいいかとか。どれほどか、Yの役に立ったかどうか。むしろ私が教えられることの方が多かった気がする。大概は私のよく行く店に連れまわしたがYが是非と言って私を連れていく店もあった。そうして飲み代ももったりもたれたり…などという呑み助のetcはあったわけだ。

「じゃカラオケ行こうぜ」がしたたか酔った挙句のことだった。もうこんなバカな教員の思い出読んでも仕方ないってむきは予想できるラストが待ってるんでこの辺で(っていうかもう読まれてないか)そう、やっとKANにたどり着くわけだ。

振り返れば「愛は勝つ」は1990年のヒットとなっているから何と33年前…敢えて調べて言葉を失う時間だ。
Yはあれこれ歌ってたけど最後にいつもこれを歌っていた。「先輩、愛って勝つんですか?」「何にですか?」「誰にですか?」「どうやってですか?」
全くYの言う通りのことで返答のしようもない。恋に勝ち負けさようならはあるような気がするけど愛には何も述語がない。
Yは一緒に歌いましょうと言って私にもマイクを持たせた。そして最後の「♬最後に愛は勝つ~♬」のところを「♬最後に愛は勝たない~♬」と歌った。音に言葉が乗らなくて微妙にコケるのだがそのコケ加減も含めて「愛は勝たない」という述語にはうなづけた。むしろずっと負け続けの毎日だったのだ。

KANという歌い手の訃報に触れて思い出したのは、ひとりの、まともでまじめで誠実で一生懸命だった一人の教師の死去である。
48歳で心臓麻痺で眠ったまま死んでいった。

改めて、今でも私の心の中にY、ずっと生き続けているよ。寂しいなんて思わないでくれ。今度カラオケに行ったら必ず「愛は勝つ」を(君と一緒に)歌う。