見出し画像

ある日の建物

昨日勤務先の予備校で講演会が催された。尾道市立大学の非常勤講師をお勤めになられている渡邉義孝先生による「東アジアになぜ『日式建築』があるのか」というテーマで90分の講演を頂いた。面白かった(と、小学生の感想みたいで情けないが)
遡ること数年前、「台湾の『日式建築』と民主主義」といったテーマで同氏の講演を初めて拝聴したことがきっかけで以来渡邉氏と機会が合えば折に触れてご厚誼を賜っている。台湾の『日式建築』のお話は1895年、台湾領有から50年に渡っての帝国時代の日本統治時に建てられた建築物をめぐって、現在その保存活動と台湾の民主政策が深いところでリンクしているというまことに興味深い内容で、エドワード・ヤンの映画になぜ日本風の家屋が映っているのか不思議に思いながらぼんやり眺めていた不明を教え諭される思いで聴いていた。
今回はところを移して、やはり帝国時代の日本が1910年から植民地として統治した「韓国」における『日式建築』をめぐるお話であった。

で、韓国と言えば…

今をさかのぼること20年以上前になってしまうが、友人と3人で釜山から1週間ほどかけてゆるゆると北上しソウル、北朝鮮との国境まで旅をしたことがあった。ところどころうろ覚えではあるが途中立ち寄ったところは扶余・光州・大邱・大田といった都市であった。私たち3人は車をチャーターし運転手さんとガイドのイ・ヨンスさんと5人でこの長旅を敢行したのである。
今でも印象に深く残っているのは光州。光州事件の慰霊記念館(正式名称はたぶん異なるだろうが)民主化運動の弾圧で犠牲になった人々の(たぶん遺体の)顔写真が掲げられていたのには正直びっくりした。後年2017年『タクシー運転手・約束は海を越えて』などで映画化などもされるが、事件(というよりは内戦というにふさわしい気もする)当時能天気な日本の大学生だった私は「ふ~ん」という感想しか持たなかったことを思い出して自分の鈍感さをいささか恥ずかしく思った。
 
扶余はちょうど地元の中学校の卒業式の日に当たり、昼食をとった食堂に学生と保護者や先生があふれかえっていた。その団体の端っこでなんとなく居心地の悪い(もちろん我々3人が外国、日本人の旅行者であることは彼らにも察せられたことと思うので、そこはかとない落ち着かない気分という意味であって、嫌悪感ではない)状態でビールなど飲みながら石焼ビビンバを食べた。落ち着かない気分とは別に石焼ビビンバが絶品であったことはここに書いておかねばならない。
食事の前であったか後であったかは忘れたが、私たちは白村江・落花岩に上ってみた。663年百済王朝は日本からの援軍も空しく唐・新羅連合軍に滅ぼされ落花岩からは3000人の宮廷女官が身を投げたと言われている。
斉明天皇が援軍として出発する折に額田王が詠んだとされる「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」この戦である。
白村江はやや水量に乏しい気もしたが普段を知らないので何とも言えない。3000人身投げしたというからにはおそらくもっと滔々とした水の流れをたたえていたことだろう。それにしてもこの場所と日本がつながっているとは…ガイドのイ・ヨンスさんのお話ではこの扶余の地は古い呼称を「クドレ」と言うそうで、そうしてみると「百済」を「くだら」と呼ぶことにもつながりを感じるのであった。
その後の行程についてはまた改めてということにして、旅において私の目を引いた建物は一般の家屋よりは教会の建物であった。尖塔状の屋根に「十字架」が意匠されている、キリスト教会でしかない建物である。韓国にこんなにキリスト教が浸透しているなんて想像もしなかった。

うん?いかん。
渡邉氏の講演からいいかげん遠ざかってしまった…

韓国旅行も渡邉氏の『日式建築』の話を事前に聴いていたら、おそらくもっと別の視点をもって街々を見ることができたであろうにと残念である。話は渡邉氏の講演会の内容に戻る。
 
洋風建築であろうと和式建築であろうと、占領時代に日本から移植されたものは総じて『日式』と呼ぶらしく、これは台湾でも韓国でも事情は同じであるとのこと。ただ、少し単純化していうと、台湾と韓国ではこれら『日式』に対する住民の感情は異なったものがあるということである。
台湾に関していうとまず歴史的な時間の長さが韓国のそれを上回る。50年、半世紀である。対して韓国は35年、やはり短い。そこに量的な差があるのは当然であろう。また、台湾は日本統治の後、中国大陸の統治が入りこむ。この大陸の統治時代が日本帝国時代のそれよりも酷かった(と、何となくそう思い込んでいるだけかもしれないが)そこで、「まだ、日帝の方がまし」ということで『日式』への嫌悪感が薄いのではないか。
韓国は言葉を奪われ(2019年韓国映画『マルモイ』に詳しい)名前を奪われ、信仰を傷つけられ、と屈辱的な扱いの数々に民族的憎悪は半端ではないだろう。当然のごとく『日式』への憎しみも伴っていよう。1926年に建築された朝鮮総督府は朝鮮王朝の宮殿「景福宮」の敷地内に建てられたもので、言ってみれば皇居内に外国政府の庁舎が建てられたのと同じである(天皇を敬う人々にとっては屈辱的な出来事と想像する)さすがにこの建物は解体されたが、韓国国内随所に『日式』の遺構は多く残されているとのことであった。
 
講演では現在残されている『日式建築』の保存の取り組みが紹介された。興味深いのは各地の遺構として存在している『日式』が図らずも再開発への抵抗として機能しているということである。中核都市の再開発と銘打って大きな資本が高層マンションを建て不動産売買で荒稼ぎする潮流に対し、歴史的に放置されてきた『日式』が所有者も不明なまま「そこにある」ことで、解体処理に至らず、土地買い占めに「邪魔」な役割を果たしているのである。
 
建物は然るべき理由があってそこに建てられる。時代の意匠を纏い、目的のために機能を果たす。何よりも一定の空間を占め、「場」を生み出す。人々が集い暮らす。思いを籠めた時を経る。

私はある日更地になった白い地面を目撃すると「果たしてここに何があったか」を思い出せない。それはたぶん私の記憶の問題なのだが一方で「記憶媒体としての建物」の喪失でもあるからだろう。空間丸ごと、「場」の気分丸ごと消失してしまったことになるのである。建物を取り壊すについては慎重を期することである。
 
渡邉氏の実務者、観察者、記録者としての実力が遺憾なく伝わってくる講演であったと同時に豊富な写真・図譜・スケッチなど、建築物に並々ならぬ愛着を抱く氏の語りに瞬く間に過ぎてしまった90分であった。