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「福田村事件」

映画 「福田村事件」
こんなことがあっていいわけがない!

なのにこんなことが起きる。それが「福田村事件」である。

だがふと思う、
「これって起こり得るよね?」

森達也監督が水道橋博士のインタビュープログラムで答えていた、
「エンタメなんで映画を楽しんでほしい」
なるほど「エンタメ」か。

だが私たちの毎日が速度制限のない高速道状態なので、まるで「エンタメ」
そこで映画の「エンタメ」が異様にrealだ。

森達也監督は「虐殺が起こる理由は何だと思うか」という問いに「集団ですね」と応じていた。
「集団」を解き分けていけばその後ろにはそれを構成させる、「時」の気分というものが横たわっている。それを支えているのは私たちで、支えつつ同時に感化もされているはずだ。つまりは「集団」とは「時代の具現」でもある。

映画にも虐殺を止めようとする人々がいる。
彼らは皆一様に「負い目」を抱えている。
澤田夫妻は朝鮮半島で「3・1独立運動」を直接経験している。
船頭田中は出征兵士の妻と関係するつまはじきものだ。
「負い目」は真ん中に居られない。
「真ん中」とはまさに「集団」あってこそのことだろう。

映画は丁寧に登場人物の日常を描写してゆく。かなりゆっくりと克明に。
香川の薬売りの一団の描写も慌てず騒がず…ゆっくりとじっくりと作り上げてゆく。
私たちはその各々に映画の時間の流れとともに自然に感情移入してゆく。彼らに「成って」ゆく。
このまま何事が起らなくてもなんだか十分に映画的時間(祝祭的な時間)を過ごした気分になっている。

あの鳶口が振り下ろされた瞬間、その場の全てに決着が与えられる。終わるということでもある。
そして次元を違えた惨劇が火蓋を切ってしまう。

私たちはもうこの現実から逃れられない。
この映画のこれからに立ち会いたくない、にもかかわらず逃げられない。

映画を見終えてそぞろ映画館を出る。
それで? 
この今、ここ、それがあの虐殺と地続きの今だということに気づかされるのだ。
何より怖いのは「俺って普通じゃん」との思い込みが呼び込む集団の狂気に違いない。
恐ろしい「エンタメ」でしたね、監督。