賈充という「挫折」の人(1)

賈充は、事実上、西晋という国家を作り、滅亡させた人だ。

こういう人物も珍しい。西晋随一の権力者であり、孫呉討伐に徹頭徹尾反対した超保守派のドンでもある(平呉が成功すると、辞意を表明して武帝に制止されているが)。

正史『晋書』を読むと、この人、結構「挫折」って言葉が似合っているよなあと思ってしまう。

最初に曹魏の時代、大将軍の曹爽に仕えた。曹爽は明帝(創叡)に司馬懿(宣帝)とともに少帝(斉王曹芳)の後見をしてくれと遺詔された。曹魏というのは、基本的に武帝(曹操)が実力第一主義で、身内をまったく取り立てなかったせいもあって、司馬懿をはじめ、才能豊かな人材が溢れ返った。それが司馬氏擡頭の原因になるわけだが。

で、曹爽が取り巻きに唆されて司馬懿を中央から排斥した。

蜀漢の諸葛亮、孫呉の周瑜と並ぶ三国時代の名軍師である司馬懿は、あえてそれを狙ったフシもなきにしもあらずだ。

結果、高平陵の変で曹爽一派が完全に排除され、故吏の賈充も割を食う形で無位無官になった。

その後いろいろあって、司馬懿に才能が認められたのだろう。武帝の時代、律令の改正を手掛けたほど法制度には精通していたから、知識は豊富だったのかもしれない。

でもって、今後は岳父の李豊が司馬師に謀叛を起こしかけ、発覚して誅殺された。賈充の妻は李豊の娘で、李婉という。

これが結構な美女であったが、李豊の失脚で離縁する結果になった。李婉の娘は、武帝の弟で司馬師の養子である斉王の司馬攸の妻になった。後に八王の乱でいったんは政権を掌握する司馬冏の母である。

賈充の若い時代は、ことほどさように「挫折」だらけだったのである。


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