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落ちるところまで落ちたら、もはや上昇するのみ(チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74)

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮:ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

明けましておめでとうございます。
2021年がスタートしました。
2020年は年初に始めたこちらのブログですが、記事を3つ書いただけで終わってしまいました。これぞ、THE 三日坊主!(笑えません)
意志が弱いというか、何にも考えないぼんくらな頭なのか?自分で自分の頭の中を見てみたい(´;ω;`)ウッ…。

昨年はコロナ一色の一年でした。
右を見ても左を見ても、寝ても起きても。
ヒッキーな私には何とも好都合な社会情勢でした←
私の職場は、リモート・在宅・時差出勤なんてどこ吹く風。
4月末からGWにかけて、数回輪番出勤をしたのみの地方の1つの中小(ブラック?)企業です。

それにしても、仕事で必要な商品、感染対策商品が軒並み欠品、長期入荷未定の状態がしばらく続いた時は、さすがにヤバかったですね。
機械類の部品が中国の工場で生産している事も良くなかった。
そう言いながら、藁をもすがる思いで、中国から船で運ばれてくるマスクに2カ月近く待たされることも。

みんな、「感染者を抑える事・生きる事」と「経済を回す事・生きる事」という目の前の二律背反な状況に右往左往されまくっていました。
そして、2021年1月2日、東京都と埼玉県が、政府に緊急事態宣言の発令を要請する。というニュースが飛び込んできました。

もう、どちらに転んでも背水の陣です。
コロナを抑えるのか?経済を回すのか?
難しい舵取りになると思いますが、政府も本気で法制度するくらいの強い姿勢で、対応してほしいものです。

ウィズコロナ・アフターコロナともいわれる昨今、新型コロナウィルスに勝つのではなく、今後近い将来、形を変えて現れるだろう(新型コロナやその変異種とは別の、数年後になるか数十年後になるかわからない)ウィルスとどのように共存していくのか?2021年はますます考えさせれます。

さて、今回のCDは水谷豊様!もとい、カラヤン様。
白髪がばっちり決まっています←
アダージョ・カラヤンの表紙にもなった、この写真。
アダージョ・カラヤンって1995年の話なんですね。
高校生の時、後ろめたい気持ちでCD屋さんの前を通り過ぎた思い出が・・・

チャイコフスキーの交響曲第6番は「悲愴」という副題がつけられております。
以下、Wikipediaより。
副題の日本語訳に関しては諸説がある。曰く、チャイコフスキーがスコアの表紙に書き込んだ副題はロシア語で「情熱的」「熱情」などを意味する "патетическая"(パテティーチェスカヤ)である故に「悲愴」は間違いである、というものであるが、チャイコフスキーはユルゲンソンへの手紙などでは一貫してフランス語で「悲愴」あるいは「悲壮」を意味する"Pathétique" (パテティーク)という副題を用いていたため、一概に誤りとは言えない。

楽曲は
ファゴットの地を這うような弱弱しい序奏から始まります。
しばらくして、コーヒーのCMでも流れていた有名な第一主題。
やや盛り上がり、クラリネットからファゴットに受け継がれる弱音ののち、ゲネラルパウゼ。からの、ff!!
これはハイドンの「驚愕シンフォニー」よりも強烈、刺激的です。
第3楽章はスケルッオ。
このスケルッオが聴いてて、気持ちいい!!
これがクライマックスか!と思えるほどの、盛り上がりを見せた後の、第4楽章。
この一連の第3楽章から、第4楽章の流れは、最高潮→落ちるところまで落ちる。のイメージがあります。
もはや、この4楽章がこの交響曲の顔みたいに感じます。
感動すら覚えます。
落ちる!落ちる―!
時折、何度かオーケストラがフェルマータで溜める楽器の総休止を経て、寂しくタムタムが鳴ります。
本当のクライマックスは、この後。
低音楽器が「死」を手招く死神のように唸り、低弦がppppで静かに終わります。
ここまで来ると、ボリューム上げなきゃダメなレベルですね!(笑)

チャイコフスキーはこの交響曲を初演した(1893年10月28日)わずか9日後、コレラ及び肺水腫が原因で急死したそうです。
58歳の若さでした。そして、この曲は彼の最後の大作となりました。

この曲は好きで演奏家を変えてよく聞くのですが、ゲルギエフ・ウィーンフィル版の方が、好きかな。

終楽章の真っ逆さまに落ちていくイメージがどうしても拭えません。
あとは、消えてなくなるか、這い上がるか。
まるで人生のようです。

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