多数決は真に民主的ではない

私たちは日常、何か意見が分かれたとき、「じゃ多数決で」ととても簡単に採決をしている。多数が少数に「勝つ」という、「多数決」という決定方法は果たして民主的と言えるのだろうか?

多数決の話になると、出てくるのが、約200年前のベンサムの「最大多数の最大幸福」という説である。もっとも多くの人が幸福なることが社会全体の幸福の最大化につながるという意味で、現在もなお普遍的な価値観だと言われている。

一方で今から約100年前の1918年に出版された、メアリー・フォレットの「新しい国家(The New State)」において、彼女はこのように書いている。

民主主義は、全体の意思を意味しているが、その全体の意思は必ずしも、多数者の意思を現わしていないし、3分の2ないし4分の3の投票数を現わしてもいない・・多数決原理は、・・統合的意思に接近するとき、民主的になるのである。・・・正しさなどというものは、・・多数者または少数者と結び付くようなものではないのである。

彼女は、真の民主主義とは、一人一人の生活や経験をもとにした真の民衆の意思が「集団的意思として」「統合され」、それが政治的な意思となる活動であるべき、と考える。

個々人の意思は、その環境との相互反応の中に生まれ、動態的なものである。そして当然それは相異性や多様性を生じる。フォレットは、意見の相異に対して、その解決法として、支配、譲歩、統合の3つを上げており、唯一、プラスの価値を生み出すのは、「統合」であると何度も述べている。

私は真理は相異性から生ずると語ってきた。投票箱において相異性が向き合うことはない。したがって、そこには統合の可能性は存在しないし、それゆえ創造も存在しない。・・・民主主義はさまざまな意見を表示するものでない。それは、まとまり( unity )を創造する試みなのである。(「創造的経験」フォレット)

そして、彼女は「民主主義をまったく誤解してしまっている興味深い事例」として、マサチューセッツの最低賃金委員会を挙げている。その会議は、労使の代表が参加する委員会であるが、労働組合の幹部の男が1,2回の会議のあと、関連する問題が徹底的に議論されるはるか前に、突然、最低賃金について採決を取ろうとしたという。その際、委員長は次のように告げた。

「採決をとるべきだから、最低賃金委員会を開いているわけでない。雇う側と雇われる側の事前に存在している意見を表示すべきだからこの委員会を開いているわけではない。関連するあらゆる事実を再検討し、そのことに基づいて議論することによって、その委員会のメンバーが何らかの合意に達するかどうかを知るために、集められているのである」と。

更に、フォレットは、次のように述べている。

会議とは、既存の意見の相異を単に記録すべき場ではないし、苦闘の成果を表示すべく採決でもって戦う場でもない。それは合意を見つけ出すべく誠実に努める場なのである。そして、こうした合意を見つけ出そうとする努力を通じて、われわれは、創造的に思考する過程を学ぶ。(「創造的経験」フォレット)

そしてその過程こそ、絶え間なく、人や集団を成長させ新しい価値を生み出し続けるものであると言う。

振り返って、私たちの周りを見てみるとどうであろうか。政治家や政党は、何よりも投票数を重要視していることは明らかだ。選挙においては、各党ともに、有権者に対して各党間の「違い」を明らかにすべきと言う。そのうえで、様々なテクニックや暗示を使い1票でも多く獲得しようとする。そして、投票箱の争いに勝てば、多数者からの「同意」を得た政党の権利として「支配」することになるのである。「違い」は「違い」として放置され、だれ一人として、その違いそのものを解決しようとする者はいないのである。

今の私たちの国、そして多くのいわゆる「民主主義国」の統治、すなわち国民の権利としての統治が、「投票箱民主主義」に陥っていないだろうか。国の支配層は、多数決原理を糧としている。従い、国民の真の希望や生活を考えるより票を集めることが重要である。私たち国民は、きわめて安易に「多数決」というもっともらしいお墨付きを信じていないだろうか。

フォレットは、多数者と少数者のについての全ての議論は無益なことであり、両者による、全体意思の形成への貢献、そして全体意思への統合こそが、常に民主主義の理想であらねばならない、と言う。

では、私たちの学校での経験はどうであろうか。多数決=民主主義、みたく非常に安易に教えられたのではないだろうか。ホームルームで、子供たちの意見が分かれたとき、先生がおもむろに、「では多数決で決めましょう」と時間を気にしながら言ってこなかったか。

私たちは、異なる意見がぶつかったときに、それを徹底的に分析、分解して、相異の本質を見つけ出し、それを統合しようと努力するプロセスの重要性を教えられたことがあっただろうか

今日、私たちは企業活動においても、集団内での意見の相異を多く経験する。この場合、実際に「多数決」という採決はあまり見られない。それは、フォレットの言う「異なる意見を統合しようと努力する」からであろうか。ほとんどの場合そうでないであろう。企業における権限規定によって上位の職の者の意見が通るのではないか。これは前述した、コンフリクト解決の3つの方法で言えば、1つめの「支配」であり「抑圧」による解決である。

昨今企業活動において、多様な意見と相異(「多様性」)や、活発な意見交換(「心理的安全性」)の重要性が指摘されている。このプロセスこそ、フォレットが指摘している「統合への努力」におけるプロセスであり、企業活動をより高みに導く社員の行動なのである。

結論として、集団における「多数決原理」は、それ自体民主的でなく、最も安易なコンフリクトの解決法であり、集団において何ら価値を創造していないのである。集団の価値や創造性を高めたり、その構成する個人の成長を目指すには、まず最初に「真摯に相異やコンフリクトを統合する努力」が求められるのである。