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「反脆弱性」講座 2 「過剰補償」

「心的外傷後成長」という現象を取り上げます。Posttarumatic Growth (PTG)です。#心的傷後ストレス障害 ( #PTSD )はよく知られています。その一方で、とても悲しい苦しい、衝撃的な経験をして、確かにその時は激しく傷ついても、その後、むしろ素晴らしく人間として成長するkとがあります。それを #心的外傷後成長 と呼んでいます。

ヴィクトール・E・フランクルの「 #夜と霧 」は、過酷な捕虜収容所の中で様々な苦難を経験しながら、さらに人間性を高めていった人々を描いています。また、身近な人の死や大きな悲しみから、より生に対する感謝の念と希望を感じて人生としての成長する人たちも大勢います。

外傷的成長は、単に傷ついた人がもとに戻るのではなく、その事件の前よりも、肯定的な変化、成長が見られるということです。まさに、一種の「 #過剰補償 」であり、同時に「 #反脆さ 」のひとつの形です。

タレブは、 #イノベーション は、最初は必要に応じて生まれるもので、何かを作ろうという努力が思ってもみない副作用をもたらし、必要以上の大きなイノベーションへとつながるということを指摘しています。更に、(イノベーションなんて一度も起こしたことがないくせに)肩書きだけは立派なハーバード・ビジネス・スクールのイノベーション・企業担当教授の授業、(これまたイノベーションなど一度も起こしたことのない)コンサルタントの助言なんかでは絶対にイノベーションは生まれない、と言い切ります。

「必要は発明の母」なのです。だから顧客の不満が大事なわけです。困ったこと、足りないこと、問題が重大であればあるほど、そこには新しいニーズであり、イノベーティブなサービスや商品が生まれるわけです。教室ではイノベーションが生まれることはありません。こういう点でも「過剰補償」が「反脆弱性」につながります。

過剰補償のメカニズムはそのほかにも様々なところで見られます。名馬は、遅い馬と競わせると負け、強敵と競わせれば勝つと言われています。タレブは、スピーチの際は、大声で明瞭に話すのではなく、ささやくようにちょっとだけ不明瞭で聞き取りづらい声で話すほうがいいと言います。聴衆は聞こうという精神的な努力をすることで、脳はフル回転し、より活発で分析的な脳のメカニズムがオンになると言います。まさに「過剰補償」、スピーチのパラドックスです。

「冗長性」

自然は自分に二重三重の保険をかけている、とタレブは言います。人間には、ふたつの腎臓があるし、肺、神経系、動脈機構など、いろんなものに予備の部品や余分な容量があります。この「 #冗長性 」は、自然というシステムの根幹をなすリスク管理の性質なのです。

過剰補償は冗長性の1種なのです。たとえばヒュドラーの余分な頭は人間の予備の腎臓と同じです。また、15㎎の毒物を摂取すると、体は20㎎の毒に耐えられるように備え、副作用として身体が強くなります。この5㎎の余分な毒への耐性は、予備のお金や地下の食糧備蓄と同じものなのです。このように過剰補償は、予備の力であり、冗長性なのです。

このように過剰補償を行っているシステムは、今よりも悪い結果に備えたり、危険が迫っているという情報に反応したりして、予備の容量や力を蓄えているわけです。

ラテン詩人で哲学者のルクレティウスは「愚か者は自分が見た一番高い山を世界最高峰だと信じる」と記しています。この心理的欠陥をタレブは「ルクレティウス問題」と呼んでいます。エジプトのファラオの時代に、書記がナイル川の最高水位線を記録して、未来のワーストケースシナリオを予測していたと言います。3.11の震災においても、過去最悪の震災への備えがあってもそれ以上の想定はできていませんでした。同じように、FRB元議長アラン・グリーンスパンは議会への謝罪で「前代未聞だった」という言い訳をしています。

一方で、見てきたように、自然は前代未聞の出来事に備えています。もっと深厚なことが起こると備えているわけです。これが過剰補償であり、冗長性なのです。

「適応度」という言葉はあいまいで、不明確です。過去の環境に順応しているということか、それとももっと強いストレスを予期している状態か、不明です。自然選択のモデルでは、後者ということになり、単なる「適応」ではなく、「過剰補償」が見られるはずなのです。

過剰補償の現象、そして反脆いものはそのほかにもたくさんあります。ひとつは、革命、つまり政治的な運動や反乱です。革命は抑圧を餌にします。何人かの首を刎ねても、それ以上の速さで首が生えてくるわけです。アイルランドの革命歌で、「防塞が高くなればなるほど、われわれは強くなる」というものがあります。

経済生活以外でいちばん反脆いものは、「抑えきれない愛(や憎悪)」です。特に愛は、距離、家柄の違い、意識的な抑圧といった障害に過剰反応し、過剰補償をします。これは様々な文芸作品で表現されいます。苦しい愛はあまりにも反脆いがゆえに、振り払おうとすればするほど執着へと変わっていく観念です。つまり自分の観念や思考をコントロールしようとすればするほど、自分の観念にコントロールされてしまいます。

情報も反脆いものです。情報を広める努力よりも情報を壊す努力のほうが、情報にとって糧になります。秘密の情報も「誰にも言わないで」と釘をさし、秘密にするように頼めば頼むほど、噂は広まるものです。

本も思想も反脆く、批判を糧にします。禁書になれば、その本は必ず広まります。また本に対する批判は、紛れもない注目の証であり、その本が退屈でない証拠となります。今でいうとネットでの「炎上」かもしれません。私たちは批判を恐れ、悪い評判が立つのを嫌いますが、批判を耐えきることができれば、中傷は大きなプラスとなるわけです。

この章の終わりに、タレブは、「不思議なことに、今まで私たちに一番利益をもたらしてくれたのは、私たちを(”アドバイス”などで)助けようとした人たちではなく、私たちを傷つけようとして結局は失敗した人たちなのだ」と言います。これは、今まで見てきたような「反脆さ」は、私たちに間違いなくプラスとして働いているという証なのでしょう。