叡智よりも勇気を(太宰治『トカトントン』を読んで)
太宰治の小説も何冊かは読んでいて、その中でもいくつか僕の心に残った作品があるのだが、その一つが『トカトントン』という短編である。
この短編はある青年が太宰本人に送ったとされる手紙の内容が小説になっている、いわゆる書簡体小説である。
実際にそのような手紙が送られたのかどうかはわからないが、モチーフになったものはあったしても、手紙の内容の多くの点は太宰の創作だろうと思う。
さて、この青年は手紙の中で太宰にある悩みを打ち明ける。
その悩みとは、仕事にしろ、恋愛にしろ、あるいは政治活動にせよ、小説を書くことにせよ、何かに心身をそそいで全力で熱中しようとしても、最後には決まってトカトントンという金槌のような音が聞こえて、それ以降、今までやっていたことがすべて馬鹿らしく、白々しい気持ちになってしまい、何もかも途中で投げ出してしまう、という悩みである。
もちろん、このトカトントンという金槌の音は一種の幻聴で、空虚さの比喩のようなものであると思うが、私もこの青年と同じように昨日まで熱中していたことが途端、どうにも白々しい気持ちになってやめてしまうことがある。
その時、実際にトカトントンとは聞こえないが、そのような幻聴が聞こえてきてもおかしくない感覚はよくわかるのである。
この青年の悩みに対して、物語の終わりで太宰は以下のように返答してる。少々長いが全文ひこう。
この太宰のメッセージの受け取り方は色んな解釈があるのかと思うが、僕は「醜態を避けている」あるいは「真の思想は、叡智《えいち》よりも勇気を必要とする」といった言葉に強い印象を受けたのを覚えている。
僕自身薄々は感じ取っていたのだが、僕は他の人よりもいっそう「人に否定されるのが怖い」という意識をもっている。
自意識過剰といえばそうなのだが、ひとに嫌われたり、醜態をさらすぐらいなら、はじめから何も求めない、そんなスタンスでいろんな選択をしてきたように思う。
そのせいで、何かリスクをとるような決断の時に、どうしてもあのトカトントンの幻聴が聞こえ、未だ本当に大きな決断をなし得てはいない、という感覚があるのである。
とはいえ、僕にも本当に何かを成し遂げるひとは勇気がある、というのはわかるのだが、はたしてでは、この勇気とはどうやって身につくのか、どのような精神や行動のことをいうのか、未だはっきりとはわからないのである。。
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