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今日、哲学を語ることの無意味さはどこから来るのか?

僕は大学、大学院と「哲学」を勉強してきた。

残念ながら、当初の研究者になるという希望は叶わなかったが、僕の中で哲学に向き合った日々は、非常に印象深い記憶として今も色濃く残っている。

ただ大学院から離れて数年経ち、日々社会人として生活している中で、なかなか哲学について語るような場面はないし、いざ当時のことを問われても、人前で哲学を語るのは、少々小っ恥ずかしい思いもするのである。

その小っ恥ずかしさの理由はいくつかあるのだが、その一つに今の自分が哲学とは全く無関係の仕事をしており、数年かけて哲学の勉強をしてきた日々に、一種の「無意味さ」を自分自身で感じてしまう時があるからである。

もちろん、この意味での無意味さは「今の仕事に直接役に立っていない、お金にならない」という実利的な無意味さであり、個人的な体験として、その日々を僕がどのように受け取っているのか、という主観的な問題とはまた別である。

実際、大学や大学院で「英語」や「ITスキル」を学んでいたのであればその先、その経験が仕事やお金にそのまま還元されるということはあるだろうが、哲学を学んでいたとなれば、その知識がそのままの形で、社会や企業に評価されることはなかなか難しいであろう。
(一応今日、ビジネス書などで「哲学」という言葉を使ってビジネスノウハウやお金の稼ぎ方を指南してくれる書籍もあると思うので、そういう哲学を語る人は評価されるのかもしれないが、それは哲学のごく一部、ないし誤った側面だと僕は思う。。)

このように僕の中にも、お金や仕事に直結しない知識に関して無意味さを感じる感性は、たしかに内在化されているのある。

ただ一方で、僕はこのような実利にならない知識や経験に無意味さを感じてしまう自分の感性に「危うさ」を感じもするのである。

ある哲学者がこのようなことを述べている。

かつて哲学者たちの考察の対象であった人生は私生活にとなり、昨今では、単なる消費生活ということになった。そしてこの消費生活なるものは、自律性もなければ固有の実体もない。物的生産過程に引きずられる一種の付けたりでしかならないというのが実情である。

実利にならない知識に無意味さを感じるのは、僕の人生が人生ではなく、ただの「消費生活」と化しているからかもしれない、とそう思うのである。

事実、今日僕たちは生活の全ての時間を注いで自分の(職場や市場での)「価値」を高めないと、十分なお金をもらえなかったり、失業してしまう危険性に常に晒されている。

逆に言えば、自分のリソースを計画的に自分の価値を高めるために使えている人は、今日勝ち組とされているのだと思う。

もちろん、このような社会体制は事実として既に成立していると思うので、僕自身もその流れの中で、日々自分の価値を高めるために活動している。

しかし、その自分の人生に何となく空虚さを感じてしまう時があるのは事実であり、おそらくそれは自分の人生が、自分の「心」というよりは物的生産過程に主導された消費生活に近い形をとっているからなのだろうと思う。

そして、このような消費生活が人生のデファクトスタンダードとなった現代で、哲学や思想を語るのはたしかにあまり意味のないことであり、無意味さの源泉はここにある、と僕は思っている。

では今後、哲学や思想について語ることはなくなっていくのだろうか。。?

これについては僕もよくわからないが、消費生活としての社会が現在よりもより一層加速された時代に、哲学が語る言葉が、必要な人がたくさん出てくるような気もしている。

特に消費生活の生存競争に敗北したり、適合できなかった人がその後、自分の人生を再度考えようとしても、消費生活の時代に生き、そういう教育を受けてきたのであれば、消費生活以外の人生を考える指針というものが、決定的に欠けていると思う。

そのような時に哲学書に書かれている一説や言葉が、何かの導きになる可能性は、まだ秘めているのではないかと僕は思っている。





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