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連帯感ではなく同体感(寺山修司『歌謡曲人間入門』を読んで)
寺山修司の作品はあまり読んだことはないのだが『書を捨てよ、町へ出よう』など有名なものは読んだことがある。
その『書を捨てよ、町へ出よう』の最後に「歌謡曲人間入門」という章があるのだが、その章は非常に僕の印象に残っている。
今時、歌謡曲いわれてもとピンとはこないと思うし、私も歌謡曲自体にはピンとこない世代なのだが、その章で論じられている歌謡曲の特徴に対する考察がすごく面白い。
寺山修司は歌謡曲の特徴を「合唱できない歌」としている。
つまり、歌謡曲は合唱のように複数人での「連帯感」を生み出せる曲ではない。歌謡曲は一人口づさむ歌なのである。以下引用である。
歌謡曲は一人でうたう歌である。そして、それは孤立無縁の大衆が、自分だけで処理せねばならない問題に立ち向かったときにひとりでに口をついて出てくるものなのである。
歌謡曲とは、時に場末のスナックで、時に学校の片隅で、あるいは長距離トラックの運転手が荷台で空を見上げながら、それぞれ孤独な個人がふと口づさむ歌なのである。
寺山修司はこのように孤独に、しかし決してめげずに、歌謡曲を口づさみながら、自らに勇気を奮い立たせて、強く日々の現実に立ち向かっていくひとたちのことを「歌謡曲人間」と呼ぶ。
歌謡曲人間はつよい人間である。すぐに消えてなくなる歌の文句を拠りどころにして、にっこり笑って七人の敵に立ち向かっているような男でなければ、時代の変革への参与など、とてもできるものではない。
だからこそ、わたしは日本人一億総「歌謡曲人間化」をすすめたいと思うのである。
そして、このような孤独な歌謡曲人間同士の間には「連帯感」はないが、同じような日々の困難に立ち向かうもの同士の「同体感」というものが共有される。
この「同体感」というものを、寺山修司もそれほど詳細には説明していないが、僕が思うに「同体感」とは、同じような困難に立ち向かう人を目にしたときにふと、「お前も頑張れよ」と遠目から心中でエールを送るような、そんな優しい心持ちのように思える。
「連帯感」というと、どうしても時に何か押し付けがましい同調圧力のようなものを感じてしまうが「同体感」にはそのような重々しさはない。
むしろ同体感とは、互いに距離をとりつつも互いを思い合っているような、どこか哀愁を帯びた関係性である。
僕は「連帯感」ではなく、このような「同体感」を感じる時に、非常に強く人間らしさを感じるのである。
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