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「やらなくていい」を選択する生き方

今日はなかなかやる気の出ない一日だった。

清々しいくらいの晴れ。晴れ。晴れ。
窓から入ってくる風が心地よい。
そんないい感じの天気が、惰性で生きている何もしない僕を責め立ててくる。そんな風にすら感じた。

僕は寒いのは好きだ。暑いよりはよっぽどいい。
どれだけ暑かろうが、人間、限界まで脱いでも肌を脱ぐことはできないし、肌も内臓も剥ぐことこそできたとしても、最終的に残るのはうんちだ。

それに対して寒いのはどうだろう。
どれだけ着太りして見えようと、寒ければ暖かく感じるまで重ね着をすればいいし、冷える部分はホッカイロなんかで温めてやればいい。
それに何より、僕には脂肪という体を守る蓄えがある。
実際、脂肪は熱をそんなに蓄えないらしいので、ついているだけ邪魔なことに変わりはないのだけれど。

何が言いたいんだろう僕は。

*****

人間誰にでも「やりたくないこと」はある。
むしろ、社会で働く大人たちにとっては、その生活の大半をやりたくないことが占めているのだろうし、その日々の中で興味関心を持って進んでやりたいと思えることなんて、本当に少ない割合なのだろう。

忙しく続く毎日の疲れや歳で「積極的に」という言葉すら忘れてしまったような大人すら、少なくはないはずだ。

*****

うちの両親は昔から厳しかった。
僕のためになると思ってやってくれていたのだろうけれど、小さい頃から毎日放課後には必ず何かしらの習い事があった。

唯一楽しかったのは、土日のサッカー少年団の練習くらいだ。

そんな家庭で生まれた僕は、「やりたくないこともやれ」だとか「嫌いなものでも食え」だとか、そういう言葉と昔から親しい。

今でもどこかで自分自身を締め付けているんだろうし、僕の生きるのが苦しくなってしまう原因も、そういうところにあるんだろうと思う。
まぁ、過去のことをどうこういうのは無意味なのでこれ以上文句をいうことも最近はしないのだけれども。

親も歳をとり丸くなって、ここ数年は小言や叱られたりすることも少なくなった。
大学生になって「自由」という文字通りの時間を過ごしてきた。夜更かしするもよし、どこかへフラッと出かけるのもよし、恋をするのもよし、サボるのもよし。

厳しい家庭だったからこその反動だったのだろうか、大学入学以来、だいぶ好き勝手にやってきた。

同時に自由には責任が伴う、という言葉の真意にも、この歳になってやっと気が付いたのだけれども。主に学業の面で。

*****

そんな「自由を謳歌する僕」を、時折戒めに来る「厳しい僕」がいることに今日気がついた。

それはいつからそこに居たのか皆目検討もつかないくらい自然に僕の心の中に巣食っていて、「何もしていない僕」や「やってもできない僕」をここぞとばかりに責め立ててくる。

「何をやっているんだ僕は、こんなにも時間を無駄にして」
「今日一日何をしていた?だらだら過ごしていただけだろう?」
「そんなこともできないのか」「そんなのできて当たり前だよ」

書き並べてみて気づいたが、全て父の声で再生されるのは気のせいだと思いたい。

そんな「厳しい僕」は僕に意味もなく焦燥感を与え続け、既にどん底にある自己肯定感をさらに低く低く、引き摺り下ろしていく。

そして、そんな「厳しい僕」の存在に気づいたことで、もう一つ気づいたことがある。

「厳しい僕」から逃れるために「僕」は何かやることを求めようとする。

例えば今このnoteを書いているのも、今日本来やるはずだったレポートをそっちのけでだらだら一日過ごしてしまった罪悪感から逃れるためだし、期限があるわけでもない友人から頼まれていた作業を意味もなく少しだけ進めてみたのも、同じように「厳しい僕」から逃れるためだ。

厳しい家庭で育てられたからなのかなんなのか、原因を追求するには至っていないけれど、僕は「毎日」に「今日は何をやった」という達成感のようなものを人より強く求め過ぎている気がする。

日によって頑張れる日があれば、頑張りたくない日があるのも当然だし、何か夢中になってやりたいことがあれば、やらなければいけないけれどやりたくないことがあるのも当然だ。

僕はここ数年「自由」を謳歌する中で、「やりたいことをやればいい、やりたくないことは頑張れるときにやればいい」くらいの気持ちで生きてきた。
それは今まで厳しい環境で縛り付けられて生きてきた反動なのかもしれないということは先にも書いた。

でも、頭でそれらを理解していても、そんな風に理想を抱いていながらも、自分の体に染み込んだ癖みたいなものはなかなか抜けきらない。それが幼い頃から刷り込まれたものならば、尚のことだ。

「人生は有限だ。少したりとも無駄にしてはならない」という考え方の人も世の中には一定数いると思っている。でも僕は、どちらかといえば無駄の方が大切だと考えている人種だ。案外だらだら映画やドラマをみていた時間だって、なんらかの知識を知らない間に吸収しているのかもしれないし、ボーッと過ごす午前中だって、その間に頭の中を駆け巡る思考のなかに、何か考え方の変化をもたらすようなアイデアだってあるのかもしれない。

何が無駄・何が無駄じゃないを決められるのは今の自分ではないと思うのだ。

というか、無駄なことは何もないと思うのだ。
何にでも、後から意味はついてくる。この人生だってそんなもんだと思えるようになった。

死んでから作品が評価されるようになった、どこかの画家のように(疎いから分からないけれど...。)

そんなようなことを前にもnoteに書いたよな、と思い自分の記事を遡ってみたらあったので、気になった人は読んでみて欲しい。

自分で読み返していて、ゴーストライターでもいるんじゃないかと思うような文体の変わりようだけれど、その辺は気にしない方向でお願いしたい。

*****

さて、少し話が逸れてしまった。
こういう本質とはずれたことをしているから、何を書きたかったのか、僕の文章は見失いがちで、結論も出ないまま中途半端に終わってしまうことが多い。シンプルに雑念が多いのだ。

そんな「厳しい僕」から逃れるために、僕は「何かをしなければ」とわけもなく焦燥感に駆られてしまう。
何もせずに一日を無駄にしたと感じてしまったら、夜寝れなくなるような気もするし、後日自身で後悔するような気がしてどことなく落ち着きがなくなってしまう。

でも、実際には案外後からやってみた方がスムーズにいくことの方が多いし、その場で「やりたくない」という感情を押し殺して始めてみても、なかなか進まず、ますます「やらなきゃいけないのにできない」自分のことを嫌いになってしまうだけだ。

焦燥感から何かに手をつけて中途半端にやってみても、頑張れる気がして集中してやったときより得るものは少なく、そこに残るのはきっと中途半端な疲労感だけだ。

その焦燥感も、落ち着きがなくなってしまうのも、自分からくるもので、きっとそれは本物じゃない。幻痛と一緒だ。
自分が自分を締め付けているだけだ。

後悔するなら、後日やらなかったことを後悔して、次は同じ過ちを繰り返さないようにすればいい。「後悔先に立たず」だ。

都合の良い言葉はなんでもスッと出てくる自分が嫌になる。

僕は完璧な人間ではないので、何度でも同じ間違いを繰り返すんだけれど、それでも全く進歩がないわけではない。そう思いたい。

先にも書いたが「厳しい僕」からくる焦燥感は無意味だ。
急かされてやっていてもうまくいかない。
強制されてやってみてもうまくいかない。
たとえできたとしても、それは僕の感情を押し殺して苦しみに耐えながら乗り越えたに過ぎない。

本当にやりたいことだけをやって、あんまりやりたくないことは頑張れそうなときにやって、やりたくないことはやらなければいい。

「やらないことを選択してする後悔」も、「やってみて後悔する」のうちに入るんじゃないか。我ながら屁理屈地味ているのが気に食わないけども。

人生やりたくないこともやらなければいけないのかもしれないが、軟弱な大人になってしまうのかもしれないが、それでも許される限り、学生という枠組みに甘えられる限り、甘えてみてもいいんじゃないか。
だらしなくたっていいんじゃないか。

そんな風に今日を無駄にした僕は思う。
やらない自分を正当化するためにこのnoteを書いているだけなのかもしれないけれど。

自分がやりたい、頑張れる気がすると思えるときに頑張ってみるくらいが、案外ちょうどいい。

それが今日の気づきだ。
果たしてこの気づきは、僕にとって無駄になるのか、大きな糧になるのか。


高校二年の冬にうつ病と診断され、ぼちぼち生きています。そんな僕の日頃の考えやぼやきを、自分なりの観点でまとめていきたいです。/みなさんの反応を励みに、少しずつ頑張っていきます。少しでも気に入っていただけましたら、スキ、SNS等へのシェアやサポートよろしくお願いいたします。