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歳を取るほどに、世を知るほどに、発信できなくなる病

書いては消し、書いては消しを繰り返して結局下書きのままアップできない記事がいくつかある。SNSもnoteもそう。自分の遅筆ぶりには嫌気がさす。何故こうなってしまうのか考えている。

よく考えてみると、若い頃は割とサラッと発信していたかも。
自分の過去を思い返すと、自分の考えをすぐ発信してた。SNSとかを見返すと、くだらないこともつまらないこともよく発信してた。今思うと、誰かを傷付けるようなことも、批判を受けそうなことも、発信してたかもしれない。ピュアとはよく言ったもので、若い私には恐れるものも無く、世の中が見えてなかった。

あの時は、「このひと言で人を嫌な思いにするかも」「誰かを敵に回すかも」「あの人に角が立っちゃうか…」なんてことはあんまり考えずにポチッと投稿ボタンを押してたな。
今はそんなことばっかり考えて、投稿ボタンが押せずに終わるんだ。

そうだな、あの感じにも似てる。
小さい頃は、紙と鉛筆があれば自由に絵を描いてた。夢中になって。けど、大人になってから紙と鉛筆を渡されても、何も描き出せない。決まりきった絵や、周りに評価されそうなもの、あるいは求められているもの。正解は?そういうのを探してから描くようになった。時には何も描かずに席を離れることもある。不思議だ。この現象にも通じるところがある。

本来自分の内から湧き出るアイデアやイメージを、アウトプットしたい欲求は、必ず誰しもが持っているはず。私にもある。溢れ出して寝れなくなる時もある。
でもそれがいざ広く発信しようとした時、正解なのか、求められているのか、人に嫌な気持ちにさせないか、(ちゃんといいねが付くかなとか。笑)そんなことを考えているうちにその手が止まり、やがてタイムリミットが来て、忙しさに追われ、誰かに頼まれた何かに時間を費やしていく。それが今自分にとっての正解だから。そう言い聞かせて、吐き出せなかった言葉が消えていく。
いくら思いついたことでも、発信しなければ無かったことと同じになる。そういう世の中だ。

人ってのは多分、大人になっていくうちに、歳を重ねるたびに、沢山のことを知っていく。知っていくと、もっと知りたくなる。知ろうとするとその領域の知識って深過ぎて沼のように掘っても掘っても底が尽きない。キリが無い。
人や街のことも、ビジネスのことも社会のことも、クリエイティブのことも、知れば知るほど上には上がいて、「自分みたいなもんがこんなこと発信してもな…」なんて思考に陥ってしまう。

これはある意味、病ともいえるのかもしれない。

今日は、この病を克服するために、リハビリ的にこの記事を書いた。反省する意味も込めて。

特に最近は、妊娠出産子育てを経験して、めちゃくちゃ思うことがあった。言いたい。この頭にモヤモヤと膨らみ続ける言葉を世の中に発したい。
そう思いながらも、書いては消し、書いては消し、を繰り返してこのざまである。
何の記事も書けちゃいない。育児に追われて時間が無くて、空いた時に書くぞーなんて意気込んでいても、休みの日の空いた時間があれば好きな映画とかマンガとかお笑いを見ちゃう。おい、どうした。アウトプットは?発信は?あのやる気どこいった。多重人格か?

まあ、それも自分の大事な時間なので、自分を許してあげるとして。

まあよく考えてみたら、少なくとも、若い頃の何も知らん私が書いた言葉より、歳を取りそこそこの知見とそこそこの視座を携えたそこそこの私が書く言葉の方がきっと面白いだろう。

その程度から始めればいいじゃないかという気持ちで、これからはもう少し気軽に、思うままに、自分の考えたことを書いてみたり投稿してみたりしようと、心に決めて夜中にこの記事を書いてみたのであった。

おやすみなさい。

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