生きる権利と死ぬ権利

お久しぶりです。最近鬱が強くて落ちてます。
大学ではボッチで、話す人といえば、ゼミの先生とカウンセラーぐらいです。

 今回は生きる権利と死ぬ権利について思っていることを書こうと思います。

 戦時中は特攻、死ぬことこそが美とされてきました。戦闘機はいかに軽くするか、人命軽視の結果、本体が木製だったり最低限の脱出装置すら搭載されていない、挙句の果てに特攻と…、一方敵国だったアメリカは違います。乗員を守るために装甲を厚くしたり、パラシュートの搭載、水上救難機の配備など、命を無駄にしない、誰も戦場へ残さない、人命重視の方針は現代まで受け継がれています。
 
 戦後、アメリカを親とする日本は生まれ変わり、天皇主権から国民主権へ、かつての欧米列強、現代の西側諸国の仲間入りをしました。だからこそ自殺は悪、という風潮が世の中にはあるのだと思っています。
人命軽視から人命重視へ移り変わった日本。その渦中で生きる我々精神障害者はどのようにして命を全うすればよいのでしょうか?

 いまさら自殺だの死生観だのグダグダ言っているくせにまだ生きようとする。鬱は心の病気ではありません。脳の病気です。脳が鬱にコントロールされて死にたいと思ってしまう、すべての生物は生存本能を有しています。人間は自殺しますが、動物は自殺しません。それはヒトよりも脳が小さく、生存本能に抗う思考ができない上、いくら学習しても道具を使うことができないためです。人間は喜びや苦しみといった感情を言葉で表現することができ、またそれを伝え、理解することができます。ヒトは道具を使うことができる地球上で唯一無二の生物です。だからロープを使い、首を吊ることで寿命を全うすることなく死ねるのです。

すべての人間は生きる権利は保障されていますが死ぬ権利は保障されていません。何故でしょうか?

刑法第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

 刑法を使って考えてみましょう。このように自らの意志で人を殺せば罰を受けます。では自らの意志で自分を殺せばどうなるでしょう?

 答えは 誰にも裁かれませんし、罰を受けることもありません。

 権利の保障には必ず報酬があります。本能的な報酬と社会的な報酬です。本能的な報酬、わかりやすいのはセックスです。セックスをすると気持ちよくてとても快感が得られる、もっとパートナーのことが好きになる。これが本能的な報酬です。仕事をして給与をもらう。これは社会的な報酬です。これらを社会機能、すなわち行政として一体化することで「権利」として国がお墨付きを与える、すなわち保障しているわけです。

 本邦において自ら死ぬことは権利として保障されていません。自殺を手伝えば罰を受けます。自殺をすれば保険金は払われないのが通常です。死ぬ権利とは自ら死を選ぶ権利ということなので病死や事故死、老衰は含まれません。先述した通り、権利の保障には必ず報酬があります。では死ぬ権利が保障されたらどうなるでしょう?

 わかりやすいのが安楽死を認めているスイスです。スイスでは苦痛を伴う難病の患者にのみ安楽死、死ぬ権利が与えられています。「安楽死」は自殺とは異なり、制度化されているので「権利」に含まれると私は考えます。では死ぬ権利の報酬とは何でしょうか?「あらゆる苦痛から解放される」これが死ぬ権利の報酬であると考えます。そして無になる、それだけです。

 死ぬ権利の保障とはこの一つの報酬のみを与えるものと言えるでしょう。
本邦では死ぬ権利は保障されていませんし、今後も保障されることは無いと考えます。死ぬ権利が保障されたら国民主権の日本そのもの、国体が保持できなくなるからです。だからこそ生きるか、死ぬか、が二極化し、自殺が問題になっているのでしょう。

以上