ナイチンゲールはいかにして、天使の顔をした死神から、死神の顔をした天使になったか

「白衣の天使」フローレンス・ナイチンゲールの名を知らぬ人はおらぬであろう。
 クリミア戦争で看護師として活躍、彼女の献身的な看護に感動した傷病兵たちは、深夜に起きて彼女の回診を待ったという(ケガ人はちゃんと寝ろ)。彼女は看護師を単なるボランティアから、医療を支えるプロフェッショナルとして確立。帰国後は統計を武器に政治家たちを動かし、衛生的な近代病院システムを確立した。この辺りが、誰もが知るナイチンゲールの姿であろう。
 しかし、クリミアでの彼女は、その評判や本人の意気込みとは裏腹に、天使というよりは、むしろ死神だったのである。
 クリミア戦争真っ最中の一八五四年、ナイチンゲールはクリミア戦争の後背地である、スクタリの野戦病院に到着した。そこでは戦争で負傷したイギリス軍将兵たちが、悲惨な状況下に置かれていた。ナイチンゲールはヴィクトリア女王へのコネをはじめとする、あらゆる能力を活用。野戦病院の状況の改善を図った。
 しかしここで、当時の医療と衛生の関係について語っておかねばならない。十九世紀は「衛生」の概念がようやく普及を始めた時期であるが、医療従事者たちはこれを歓迎しなかった。「衛生」は「医療」の既得権益を脅かすものとみなされていたのである。
 当時の医療従事者がどのくらい衛生を敵視していたかと言うと、
「返り血でどす黒く変色した手術着は外科医の勲章とされ、着替えも器具の消毒もすることなく、外科医は手すら洗わずに連続で手術をした。『手を洗う』ことで合併症の発生率が大幅に下がることを発見した産科医イグナーツ・センメルヴァイスは、医療界を追放された」
 十九世紀の医療従事者であるナイチンゲールも、この偏見を免れなかった。野戦病院における死亡率の高さは、物資の不足に由来すると信じた彼女は、ホール軍医長官らの妨害と戦いながら、ひたすら大量の物資を供給させた。
 ナイチンゲールが奮闘している最中、イギリス政府から派遣された『衛生委員会』が野戦病院を査察、ベッドの間隔を空け、換気が十分になるように窓を開け、汚水が井戸に流れ込まないようにするなどの改革を行っていった。ナイチンゲールは「命令系統が違う」ことを理由に、彼らの改革を黙認することを余儀なくされ、彼らの改革後に野戦病院の死亡率が急減したことも、自分の手柄と固く信じた。
 戦争が終わり帰国した彼女は、病院システムの改善と、看護婦の養成のためのシステム作りに取り掛かった。その際に彼女が頼りとしたのは、かつて学んだ統計の手法であった。彼女は統計によって、自らのスクタリでの活動を分析、改革の成果を数字とグラフで示して、政府を説得する材料としようとしたのである。
 数年をかけて統計をまとめた彼女は愕然とする。野戦病院における死亡率の減少は、物資の潤沢な供給を基本とする彼女の改革によるものではなく、『衛生委員会』による改革の成果だったのである! 衛生を軽視する自身の偏見によって、救えるはずの命の多くを見殺しにしていたことを悟った彼女の衝撃は、いかほどのものであったか。
 しかし彼女は、自分の過ちを明らかにし、世間に対し懺悔をしようとはしなかった。彼女には後悔と自己嫌悪を一身に引き受けてでも、やり遂げねばならぬ大義があったのである。それは「衛生概念の導入による、病院システムの改革」であり、それを成し遂げるためには「クリミアの天使」の名声を失うわけにはいかなかった。
 彼女は看護婦の育成活動から身を引き、病院システムの改革のため、統計データで政府の要人たちをぶん殴って回った。この時彼女が考案したのが、今では我々のよく知る「円グラフ」である。数字では実感できない事実も、円グラフで見せられれば納得せざるを得ない。ベッドの間隔を空けること、十分に換気をすること、上水と下水を厳密に分離すること。これらの衛生的な対策が、どれほど病院における死亡率を低下させるか、彼女はグラフで示して 、要人たちを次々に説得して行った。そしてイギリスの病院システムは、衛生的に改革されていったのである。
 晩年の彼女は病に倒れ、病床で著書と手紙を書き続けた。代表作『看護覚え書』は、ページの多くを、病床と患者の清潔を保つこと、すなわち衛生に割いている。彼女は自らの活動のために名声を利用することをためらわなかったが、英雄として扱われることを好まなかった。「名声」の実態を一番よく知っていたのが彼女自身だったからであろうか。


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