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「オッペンハイマー」は善か悪か

ノーラン監督の最新作「オッペンハイマー」を見ました。IMAXで見たんですが、映像的にはわざわざIMAXで見なくてもよかったかなと思いました。しかしテーマはとても興味深く、個人的にはかなり面白い映画でした。
伝記映画にテーマもクソもないと思うかもしれませんが、自分が勝手に解釈したテーマを説明し、この映画ではオッペンハイマーは善なのか悪なのかを独断と偏見で決めたいと思います。
その前にあらかじめ僕の考えを言いますが、この映画はノンフィクション映画ではないので実際のオッペンハイマーの話ではないと認識しています。あくまで映画での「オッペンハイマー」を前提に話していきます。

毒林檎

冒頭のシーンで、オッペンハイマーがりんごに毒を仕込んで教授を殺そうとして、思いとどまってやめるんですが、もうこれ完全に殺人未遂じゃん。開幕からめっちゃ悪じゃんって感じだったんですが、ともかくこのシーンで面白いのは「林檎に毒を仕込む」ことの意味なんですよ。りんごは知恵の実で人類の象徴ですし、「ニュートンのリンゴ」みたいな科学の象徴でもあります。それに毒を仕込んだ(人類、科学に毒を盛った)男「オッペンハイマー」っていう自己紹介シーン。さらに重要なのはそれをやっぱやめたする優柔不断な奴ってのが冒頭からわかります💢

光の二重性

実はこれ「SF映画」だ。

講義中のシーンで、光は波と粒子の2つの性質を持っていると説明があります。ここめっちゃ重要!
これは量子力学の中心的な概念なんですが、これの何がすごいん?ってのとなにが映画と関係するのかを説明します。
まず量子力学は物理学の中でめっちゃ新しい学問で、それまでの古典物理学では、この世全ては波または粒子のどっちかってのが常識でした。
ですが実際には、光(量子)はなぜか両方の性質も持っているのが明らかになりました。それがなぜかというのは現在もわかっていません。アイエエエ!?ニンジャ!?ニンジャナンデ!?

そして重要なのは、それがなぜかに対して様々な解釈があります。
有力なのはコペンハーゲン解釈というもので、観測することで性質が決まるというので有名な「シュレディンガーの猫」の元ネタです。


他に有名なのは多世界解釈で、波の世界と粒子の世界2つに分岐してるという解釈ですね。
他にも色々あるんですが、つまりいろんなSF映画の元ネタになっている理論なんです。んでこの映画では一周回って2重性ってのがテーマになってるんだと思います。
つまり光は不安定で曖昧なんですが、それは人間も同じなんじゃないか説
右にも左にもなるし、善にも悪にもなる。

本作は「人間版二重スリッド実験」あるいは「シュレディンガーのオッペンハイマー」だ。

観測者=観客

つまり、先ほどのコペンハーゲン解釈では、観測することによって光が波か粒子か決まるということだったんですが、この映画のオッペンハイマーが善か悪かは「観客が決める」というノーラン監督の意図を随所に感じます。
というか「自分もそういう風(不安定な光)でありたい」的なセリフをオッペンハイマーが言っていたし、あからさまに彼を重ねています。
この映画は核や戦争の恐ろしさを伝えるとか、反省するみたいな高尚な映画でもないし、逆にそれらを肯定するための映画でもない。
ただ単に、人間の二重性というテーマにぴったりの適役がオッペンハイマーだっただけで、それを表現したかったんだと思います。(妄想)
その二重性を表現するために、善と悪、左右の天秤を揺らしながら異常なまでに均衡を保つように表現しているなと感じました。
なぜ、日本人の被爆が描かれないのか至る所で議論されているけれど、僕的にはこのテーマが原因だと思います。つまりそのシーンを描いた場合、善悪の性質が悪に傾きすぎる、そうなると二重性というテーマが破綻してしまうため描かなかった。
ノーラン監督が日本に配慮してとか、アメリカとかの圧力に負けて描かなかったなんて納得できますか?(俺には想像できん)
逆にいうと日本の被曝というのは、ノーラン監督でも均衡を保てないほどのということです。

タバコ

結局「オッペンハイマー」は善なのか悪なのかに戻りますが、そもそも善悪ってどう決まるのでしょうか?人によって?法律ですか?
映画内では時間が鍵になっています。時間によっては戦争を終わらした英雄だし、敵国のスパイになる。時間によって善悪が逆転する。
現実でも同じで、わかりやすいのがタバコ。
映画内では、講義中にタバコを吸い、オフィスでもタバコを吸い、爆弾を作りながらタバコを吸う。現代ではありえない光景です。

人、国、立場、さらには時間によって善悪が変わる。絶対的な善悪なんてあるのだろうか?
それでも人間は善や悪を決めます。そうでなければなにも進まない、法律も作れないし、裁判もできない。社会が回りません。
なによりその方が楽です。今日は善で明日は悪なんてめんどくさすぎる。多数決で善悪を作り、それに固執します。
しかしそれが時間と個人のギャップから対立を生みます。まさに連鎖爆発。

訂正可能性

善悪とはなにか?を追求したいわけではないです。この映画は善悪なんてコロコロ変わるよってのを前提として、じゃあそれとどう向き合っていくべきなのか問うてるんだと思います。これは他人事ではなく、実際に今自分が正しいと思っている行いが、後々で糾弾されるなんてのは誰でもありえます。
誰しもが大なり小なり過去の過ちをもっているし、これから作ります。
そんな場合の対処がこの映画では2パターンあります。
オッペンハイマーとストローズ。訂正と修正。
オッペンハイマーは、訂正を試みることに重きを置いています。彼はマンハッタン計画の指揮を執りながらも、その結果としての核兵器の使用に対する倫理的な葛藤に直面し、後にこれらの行動に対して自己訂正を行うシーンが描かれます。
対照的に、ストローズはより頑固な姿勢を取ります。彼は政治的な理由からオッペンハイマーのセキュリティクリアランスを取り消すなど、歴史を修正あるいは隠蔽し、過ちを認めるよりは、自身の行動を正当化する方向で進むことを選びます。(頑固親父)
どちらが正しいとか、反省、後悔しているではなく、自らの過去の行いに対しての向き合い方としてオッペンハイマーのほうが良いと僕は感じました。
このあたりは、東浩紀の「訂正可能性の哲学」を背景にした考察で、こじつけかもしれません。

結論

んで結局、「オッペンハイマー」は善か悪かなんですが、この映画を見て驚いたのは、作中で爆弾を作るのに反対する人が何人かいたんですよね。放射線の人体への影響についても言及されていて、それでも爆弾を作るのは意味わからんし、浮気も平然とするしで僕は悪だと思いました。
上で話したように、時代的にしょうがないとか色んな見方があると思いますし、そういう映画だと思います。いろいろな人に考える、訂正する機会を与える映画です。長々と書いたように自分は善悪よりこれについて色々考えてしまいました。
この「二重性」というテーマに似た他の作品があるか考えたんですが、
「コードギアス」が近いかな?ギアスという強大な力を手に入れ葛藤するルルーシュ。同監督作品だと「ダークナイト」が近いと思うんですが、なんかどちらもズレてる気がするんですよね。他にも「衛宮切嗣」とか「うちはイタチ」とか(アニメばっか)


現状、僕の中で「オッペンハイマー」が上のテーマを完璧に表現している作品でした。それはおそらく、これが伝記映画でオッペンハイマーだからだと思います。

ノーラン監督にしか作れない素晴らしい映画でした。


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