瞑想・禅の弊害について 要約版

Ⅰ.はじめに
近代社会において精神面の重要性が注目されてきている。そんな中、東洋の叡智とも言える瞑想と禅が再度ブームになっている。
それらはビジネスマンやスポーツマン、老若男女問わず多くの人々に受け入れられているのではないだろうか。
瞑想と禅がもたらす恩恵は様々あるだろう。今回はそれらについての紹介は行わず、弊害は無いのだろうか?という事について、私自身の経験や卓越した先人達からの注告などを踏まえながら考察を進めていきたい。
なお、今回は要約版なので詳しい内容は近日掲載予定の完全版(有料予定)を参考にしていただきたい。

Ⅱ.瞑想と禅の目的
そもそも瞑想と禅はなんのために行うのであろう?この事を簡潔に述べるならば【心の本性】を見出すためではないだろうか。

Ⅲ.瞑想と禅の弊害
1)瞑想の弊害
そもそも瞑想とはどんな行為であろうか?瞑想を簡潔に述べるならば、一つのモノを様々な角度から捉える事。と私は述べる。
「人間は考える葦である。」と思想家パスカルは述べている。この「考える」という言葉について少し考察していきたい。考えるという音は「カンガエル」となる。これは「カムガエル」つまり神に帰るという言葉から来ているという説がある。この考えるという行為は知性を使わなければなり得ない。知性とは我々の持つより精妙な体の恩恵であり、知性が感情や肉体を帯びて我々人になる。
瞑想とは知性の働きを使い心の本性(神)を見出す行為であり、知性を結晶化させるために印象を摂取し変換するための手段とも言えるだろう。
この印象の摂取と変換というモノが瞑想に弊害をもたらす大きな因子だ。
印象量の変化により食物と空気のバランスが崩壊して弊害が起こる。

2)禅の弊害
禅には大きく2種類ある。坐禅と禅問答だ。
また、瞑想と坐禅の只管打坐(しかんたざ)を混同している方をよく見かけるがこれらは全くの別物だ。
坐禅とは只管打坐により心の本性を見出す。
禅問答は公案により心の本性を見出す。
この二つに共通している事は頭(脳)にかなりの負荷を掛けることだ。
それにより脳と呼吸器に重大な障害を与えてしまう事を「禅病」と称する。
臨済録にこんな言葉がある。
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得ん」。殺仏殺祖(さつぶつさっそ)と略すこともある。
これは禅のいう魔境への警告であろう。魔境とは簡単に言うと中途半端な修行者が神秘体験や光明に溺れて抜け出せないことである。浅野斧山師はこの魔境も禅病だと説いている。

Ⅳ.弊害を起こさないためには
禅の修行者「雲水」という言葉は何を示すのであろうか?
Googleによると(雲がどことさだめなく行き水が流れてやまないように)諸国を修行して歩く僧。行脚(あんぎゃ)僧。
と表示されている。だが本来の雲水の意味は、心の本性を見出してくれる師を探している修行者のことだと言われている。
さて、周りくどいことを言ったが要するにあなたを心の本性に導いてくれる師に出逢うことが最善の予防策ということだ。

Ⅴ.終わりに
この要約版では肝心なところの説明が欠落しており不完全である事は承知だが、それでもこう言ったモノが存在している。ということを知れば色んなモノが見えて来るのではないか?とおこがましくも思い記事をまとめた。
誤解を招く恐れがあるので一応付け加えておくと、瞑想や禅が悪いわけではない。ただ、何事も正しい指導や知識が無いのに闇雲にやっても害が出る可能性が高いということだ。趣味程度にボチボチやるのは問題はないだろう。

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